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玉ねぎから子育てへ
玉ねぎ。


畑で植えてみたものの、なんてゆーか不自然さ、気持ち悪さがつきまとう。

『この植え方はなんかちがーう!!』

と、思いながらも素人のわたしは他に方法も思いつかず、首をかしげながらひとまず植えて終了。

気持ち悪い感覚を引きずりながら帰宅したら友人から電話。

これは!
と早速玉ねぎね植え方を聞いてみた。
彼女もつい最近、一緒に畑やってるご主人から玉ねぎね植え方の指摘をうけたばかりだと大笑いしながらレクチャーしてくれた。

その伝授して頂いた方法の、美しさといったら、、。
無駄なく、無理がない。

土の微生物を生かし、
自然の営みの流れにちょっとお邪魔します、とでもいうようなその植え方。
なんて美しくて優しいんだろう、、

翌日『今の畑最高!みにおいでー』
彼女が畑に連れてってくれた。
先生と数人でやってる都会の住宅地の片隅にある自然農畑。

見た瞬間、あまりの美しさに鳥肌。

端から端まで緑、緑、緑!!!

隙間なく育っている
大根と白菜の緑の綺麗さったら、、。

わさび菜や水菜、九条ネギが隙間隙間に
所狭しと並んでいる。

そのひしめき具合は
慣行栽培ではありえない。

『こんなびっしりで育つんだ、、』

『びっしりだから育つんよ』

肥料が行き届くように、根が育つように、
間隔をあけて整列。

そんな常識が全く通じない。

土そのものが生きている
微生物も虫も土壌菌もみーんなが
共生しているこの畑では、
そんな配慮は無用。

けれど、美しい。
野菜が伸び伸びとイキイキと喜んでいる
その姿が、たまらなく美しい。

種の蒔き方も
苗の植え方も
土が主役で、土が最優先。

土がストレスなく健やかに育っていれば
野菜は育つ。
勝手に育つ。

本質をいかに壊さず育てるか
それがそのまま、彼らの美しさ、を養う。

シュタイナーの本質と繋がる、、。


自然に逆らわずこの地球上にある素材を循環させるだけで、全てが事足りることの美しさ、、。


手はかけない。
けれど
目は目一杯かける

毎日毎日観察して、本当に必要なところだけそっと手を入れる、、、

自然農の在り方、、


これが、どれだけ難しいことか、、。

手を入れるほうがうんと楽ちんだ。

オルトランまいて、肥料いれて、
耕して、、
一時の間は、それでうまくいく。
でもやめたら、虫がわく。
菌が死んでいる土壌には病気がはびこる。
そして薬剤に肥料、、
同じことが繰り返される。
土はどんどん痩せていく、、。

根を焼いてしまう化学肥料から逃げようと
根はそれより深く深く地中にいく。
その連動で実は肥大する。
中身はスカスカの野菜。

土壌に全ての答えがある。


一年前畑を始めたのは、無農薬、無化学肥料で野菜を作ってみたかった。
特に自然農へのこだわりがあるわけでもなかった。
カラダの不思議を探っていく延長線上に畑があった。
土=腸
に見えて仕方ないわたし達が、それを確かめたくて始めたよーなものだ。
科学の実験のような感覚だった。

耕さなくても
肥料がなくても
ほんとに出来るのか?

それがまず初めに抱いた疑問であり
好奇心。

そんな私達の疑問を笑い飛ばすように土は日に日に肥えていき野菜はしっかり育っていく。

一つ一つ野菜が出来る度に、
疑問が確信に変わる。

確信に変わるごとに、

地球上全ての元素が何一つ欠けることなく全てが調和している、ことを知る。

なんどもなんども知る。

つまりは、

私達人間は、明らかに

生きているのではなく

生かされっぱなしだということを

知る。


その度に
肝っ玉母ちゃんから
『何度言ったらわかるんね?』
と怒られてる気分になるw

でも、すっごく暖かい。。


私達母という生き物は、
ここから子育てに話が流れる(笑)

『ここは10倍楽しくて
10倍難しくて
10倍面白い!』

ある不登校の子があるフリースクールに転入し発した言葉から話が展開する。

目を輝かして毎日登校する娘に
ほっとして涙するお母様の姿、、。

『ここに来てよかった、、』

その言葉の重みは如何程か、、。

『後先考えずただ今の娘に寄り添おう』と覚悟してそこを選択されたという。

覚悟

腹を決めたらあとは野となれ山となれ

そんな心積もりで生きてる親ってのは
強い。


『子供たちが可愛くて可愛くてしょうがないのよー。』

満面の笑顔でそう言える教師と出会える子供たちは幸せだ。


キラキラしたオトナが
教えることを目一杯愉しんでいる
その空間が、楽しくないわけがない。

不平不満を募らせてイライラしたオトナが伝える空間が楽しいわけがない。


どの学校にするか、とか
何の習い事させるか、とか

勿論大切なのだけど、

それ以前に、

親であるワタシが

大人であるワタシが

キラキラしているか

命を味わい尽くしてるか

それって土壌だね、、、

と。

やっぱ、子供じゃないね、、

問題は、親だねと、、。(笑)



『痛いね〜〜』

『かなり痛いね〜』

『でもこの痛みには鈍感になりたくないねー』

『そーやねー』


玉ねぎから子育てへww

母ちゃんのトークはキリがない(笑)



















| Body,mind & spirits | 05:53 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
摂食障害2
この記事をUPしたのは二年前。

http://yogarhythm.jugem.jp/?eid=389

タイトルがどストレートすぎたのか閲覧数がダントツに多く少し驚きました。

『摂食障害』に悩んでる人が多いのか私がそうであったことが気になられるのかはわかりませんがww
何かしらこのワードが引っかかるってことは確かだと思います。

実際この二年、メールを数名の方から頂き、メール上でやり取りをさせて頂きました。
プライベートな事なので詳細には触れませんがどの方も摂食障害歴が長く生活の一部として組み込まれていてそこからの脱却に難しさを感じておいででした。

私は精神科医でもないし、心理学者でもありませんからプライベートなご相談に対して個別に的確なアドバイスが出来るとは思えません。

ですから共通にみなさんにお伝えさせて頂いたのは
『ココロへのアプローチ』
『カラダへのアプローチ』
どちらもやってみては如何でしょう、、ということでした。

記事にも書いていますが、ヨガ、呼吸法、食を見直すことを始めて摂食障害のいわゆる症状はなくなりました。
私が28歳の時です。
ステロイドの離脱時と重なります。
ステロイドという薬との決別が自己治癒力を高めホルモンバランス等の機能が回復しホメオスタシスが正常に戻ったこと、また、ライフスタイルが大幅に変わったことも要因の一つだと思います。

これを治癒といってもよいのかもしれません。

ただ、私の中で何かが完結していない未消化感が常にありました。
ホメオパシーを学び始めてそれはさらに確信につながりました。

そして記事に書いてある通り、2012年に母との対峙の中に紐解く結び目を見つけ、完結に至りました。
さらに遡れば、2005年から数年間は長きに渡り親との関係性だけでなく対社会、非自己への葛藤の日々が続き、今思えばそれも土壌作りに一役かってくれたのかもしれません。

私に関して言えば
ヨガなどの身体、ココロへのアプローチも、ココロの部分だけを独立させて更に観察していくアプローチもどちらも必要だったということになります。

生活の一部として摂食障害が組み込まれている場合は尚更表面的な変化では足らず、大々的なカラダとココロの変革が必要とも言えます。

人それぞれ原因も根の深さも違います。

治癒の方法に正解はありません。

これをしたから、治る

のではなく、

何かしらの方法がたまたま治癒のスイッチをいれる

に過ぎないと思っています。

だからこそ

治らない

と決めつけて蓋をしめてしまうのはもったいないと思うのです。

あらゆるところに治癒のきっかけが潜んでいるし、幸せに健やかに生きていく鍵もまたあちらこちらに点在しています。

これしかない

という決めつけで閉じられた世界を作るより

開かれた空間にカラダとココロを身を置く心地よさに委ねることが治癒への第一歩かもしれません。









| Body,mind & spirits | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ヤマトナデシコ!
警固にあるヨガスタジオUNIVAさんでヨガクラスを始めて一ヶ月が経ちました(^_^)

軸は

『緩める』
『暖める』
『整える』

私自身がこの10年で『ゆるめる』『あたためる』『ととのえる』恩恵をたっぷり頂きましたから、その素晴らしさを僅かでも分かち合えたら、、という気持ちで毎回愉しくレッスンさせていただいています。

軸を支えている基盤は
『女性であること』
『日本人であること』

時代遡り、かつてのヤマトナデシコ、日本を支えた女性の身体能力の高さは、安定し、且つ、柔軟な中心軸のしなやかさ故。

何も特別なことをしていたわけでもなく、ましてや筋トレなんて言わずもがな。

山のような仕事をこなしつつ、多産し、育児し、家庭を支えていたヤマトナデシコ。

そんな彼女達を現代の視点から眺めると、たいそう強いられ、苦しい生活を余儀無くされていた、女性軽視の時代だったとつい解釈しがちですが、事実は、そうとも言えないそうです。
実に活力溢れ笑顔溢れる日々をイキイキと生き抜いていた、、と。
生活の苦しさとココロの苦しさは決して正比例するものではないことを、彼女達は教えてくれます。当時の彼女達の身体能力の高さを知るにつけ「男性」「女性」の定義、その時代に確立されていた前提そのものが寧ろ今よりもより自然の営みに沿っていたのではないかとすら感じます。
少なからずそこに歓びがあり、それを完遂するだけの身体の底力があったからこそ多産育児という偉業をこなしてこれたはずですから、、。

そこに、現代の私達が見習うべきヒントがそれはそれは沢山散りばめられています。

そのヤマトナデシコの身体力と切っても切れない着物文化。
「布目と布目を合わせ、直線の着物をいかに曲線の身体に沿わせるか」
軸がなければ着崩れしますから、着物で生活することそのものがアライメントを整えることに。
現代ではあえて鍛えなければ出来ないことを、日々当たり前の生活の中で行っていたわけですから、私達とは違って当然ですね、、。

オモテは柔らかな脂肪と適度な筋肉、内側は強靭でしなやかな深層筋肉、それが椎骨をしっかりサポートし、上からのエネルギー、下からのエネルギーを流す軸が太く貫く、、。
外側は極めて柔らかく緩んでいるため、
血流は末端まで流れやすく身体は暖かい。
立ち姿、後姿が美しい、ということは、エネルギーが隅々までゆき届いていた証。

そんな着物に魅せられ、妊娠前はよく袖を通していました。
着物を着ると所作、振る舞いが軸から発することになるので、身体感覚が自ずと広がっていくのを感じます。

話がヤマトナデシコに終始してしまいましたが、ヨガクラスでは、そんなヤマトナデシコの身体感覚を75分の短い時間の中で僅かながらでも体感できれば、、という思いで構成しています。

ゆるめること=簡単
ではありませんww
相反する様ですが、ゆるめる道程でダルさ、重さ、ギスギス感、違和感、一時的な便秘、あるいは下痢、、など不愉快な事象が起こる場合もあります。

カラダの要である骨盤そのものが緩み、整う過程ですからそういった違和感は不可避ですw
ですが、骨盤をゆるめることで起きた不具合は決して長引きません。
表層の筋肉を無理に動かすことによって起こる過度な筋肉痛はカラダにとって負担になりますが、表層を緩め暖め、深層部を鍛えていく過程では同種の筋肉痛にはなりません。

極端な変化ではありませんが、ボディブローのようにじわりじわりと身体があるべき姿に戻る微細な変化にココロを委ねるのはとても心地がよいものです(^_^)

身体の表層が緩まれば緩まるほど
体の奥では相反する力が働き、
軸を形成しようと働きかけ

本来の

『体幹』が生まれ

柳の枝のようにしなる体に変化していく、、


そんな変化を共に分かち合えれば嬉しいです(^。^)


| Body,mind & spirits | 02:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
摂食障害

摂食障害

これは沢山の女性が抱える一つの現代が抱える病です。

以前ヨガを伝えていた時にこの摂食障害で悩んでいる方々に沢山出会いました。
けれど、正直その時、私はそのアドバイスとして的を得た言葉をかけることは出来ず、ありきたりの言葉しかお伝えすることが出来なかったことがずっと心に引っかかっていました。
なぜなら、私もその答えを求めていたから。

そう、私も摂食障害だったからです。

私は10代後半から20代後半まで波はありましたがずっとこの摂食障害に悩まされてきました。
10代後半は拒食、20代は過食、そして嘔吐を続けていました。

ヨガを本格的に始めてから『吐く』症状こそ治まりましたが、根本的にこの障害から解放されたかというとそうではなく、心の中では「食べたい」「吐きたい」と思ったことも多々あり、精神的にはずっと摂食障害だったのではないかと感じています。


今、私は完全にその障害から解放されました。
なんとなく治った・・・ではなく、治癒した瞬間があったのです。
まさしく《瞬間》でした。
「あ!!なぁんだ!」と腑に落ちた瞬間から、私は長年の苦しみと決別することができました。

私のこの経験がどの人にも応用が効くかどうかは全く見当がつきません。
けれど、少なからず何かのヒントになってくれればとてもうれしい・・・。
そんな希望を持ちつつ、私の治癒する過程を書いていこうと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初めに、、、
私の摂食障害の歴史において、切っても切れない存在であるのが母です。
これまで前述してきた通り私と母の間には数々の問題が点在していましたが、この《摂食障害》という事柄を通して結ばれた私達母娘の絆の中にそれらの問題を解き明かす核が潜んでいました。
その核に出会ったことで、私自身の呪縛からだけでなく、母自身が抱えていた呪縛からも解放されることが出来ました。
それは、いってみれば、それまで作ってきた親子の関係性が崩れ、再構築し始めた瞬間でもありました。
ですから、私の摂食障害の治癒の過程には、さかのぼって母の歴史を見ていくことがとても重要な事柄でもありました。

これから書くことはもしかすると様々な反論を招くことになるかもしれません。
実際、これまでも「実の母親をそんなに悪く言う事はないのに」というご意見を頂いたこともありました。
そう言って下さる方のお気持ちがとっても嬉しく、有り難くその言葉を受けました。
なぜなら、私も母をとても愛しているからです。

摂食障害だけに関わらず、現代女性に多くみられるアダルトチルドレン、自律神経失調症、等の心の病は、実のところ親子関係を起因に発症している場合がとても多いのが事実です。
そして、そういう問題に関わっている方達はみな親を愛しすぎているために目をそらしその問題から抜け出せないケースが多いのです。
愛しすぎている・・というよりも、お互いに本物の《愛》というものを知らず、《愛》を束縛やコントロール、擁護することだと思い違いしたがために起こっている・・・・と言った方がいいのかもしれません。
こういう関係性に身を置いてきた方達は大概、他人に親を悪く言う事をとかく避けて、自分の身を砕いてでも守りたいと思ってきたのではないでしょうか・・・
私の場合、父の事はあーだこーだと他人によく文句を言ってきましたが、母の事となるとなぜか心の中に抱いていることと逆のことしか言えませんでした。
母について何かマイナスを言う事は、自分を傷つけることと同意でした。
言えたとしても、それはせいぜい5割で、残りの5割は秘め事だったのです。

そんな親子だからこそ、一見その根を探すのはとても難しくみえるのですが、いったんその根を探そうと決意さえしたら、意外にあちらこちらにその根を探すヒントが散らばっているのも親子だからこそ、なのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母は私が物心ついた時から摂食障害でした。
というより、あれが《摂食障害》だったのだ、と言い切れるようになったのは、治癒が起こる瞬間後のことです。
3〜4歳の時、毎日夕飯の後欠かさずトイレにお湯の入ったやかんを持っていく姿を不思議に感じた時の風景を覚えているのですが、なぜか幼いながら触れてはいけないところなのだと解釈していたようです。
そこからもう少し成長して、明らかにそれが嘔吐しているのだと知った時、母がトイレにいっている隙にそっと父に尋ねたことがありましたが、父はとても分が悪そうに「お母さんは腎臓が悪いから吐かないとだめなんだ。」との答えがかえってきました。
その日から、「お母さんは病気だから吐かないとダメ」という刷り込みが私の心に植え付けられ、それを信じてきました。
母にその理由を直接問いただしたことはありません。
ともかく、幼少のころから、母が嘔吐する姿を当たり前として日常に刻みながら生活していた、ということになります。

母はとかく美的容姿にこだわる人でした。
10代から美人で有名で、今で言う「JJ」のようなファッション雑誌の読者モデルをしていましたから、とくに痩せた太ったという話題には敏感だったのだと思います。
「ちょっと太ったかしら?痩せなきゃ。」という母の口癖はいつしか私に「女性は太ったらいけないんだ。」と思い込ませる刷り込みに変化し、私も小学校3年生くらいからもうすでに痩せた太ったを気にする少女に自然になっていきました。
そんな私に父は「今はそんなこと気にするな。どんどん食べろ!」と心配して言うのですが、私はいつも心の中で「お母さんだっていつも気にしているのになんで私にしか言わないの?」と皮肉にしかとらないようになっていました。
一方母は、私が気にしていると、「それじゃあ、太らないメニューにしてあげるわ!」と小学校の時からダイエットメニューなんかを作ってくれるような人でした。
その当時はなんて優しい母なんだろうと本気で思っていました。

「女性は美しくないと!」という母に流れる強い感覚はそれはそれはパワフルでした。
当時では珍しいエステにも通っていましたし、今で言う軽い皺とりのようなプチ整形も果敢にチャレンジしていました。
私にとっても、美しい母は自慢でした。
母のように美しくなりたいと思い続けながら生きていました。
だからこそ、母のように美しく生まれてこなかった自分を僻み、母を羨ましくも思っていました。
高校生になり、ぷくぷく太りだした私はいよいよ真剣に悩み始めました。
母は「思春期なんだから仕方ないわよ。じきに痩せるから。」と言ってくれましたが、すでにその時には、母から受け継いだ刷り込みは私の一部となり、そんな言葉は慰めにもならず、ただただ痩せたいと思うのみ。
結果、炭水化物抜きという成長期にやってはいけないダイエット法を試し10キロほど痩せましたが、結局リバウンドで1年後には逆戻りどころかそれ以上に太る始末。
このころは、父と母の喧嘩も頻繁に起こるような状況になっていましたから、家から離れたい、母から離れたい、そんな感情も溢れていて、家族間の空気もピリピリしていました。
夜遊びを始めたのもこのころでしたから余計に家の空気は悪くなる一方・・・

そんなときに、母と大喧嘩が勃発。
きっかけはささいなことだっただと思います。
けれどどんどんエスカレート。
しまいには、
「お母さんは綺麗だからいいじゃない!洋服だってなんでも似合うような人には私の気持ちはわかんないんだよ。」
と、結局そういう類の内容にすり変わり、

そして、とうとう、母は禁断の言葉を私に投げかけます。

「あゆちゃんも吐いたら?」

衝撃でした。
母が吐くのは病気だから仕方ない・・・と思い込んでいた私に、母が嘔吐を勧めているわけです。頭の中は、??が飛び交いながらも、どこかで合点しているような、なんともいえない感覚だったのを覚えています。
残念ながら「何言ってんの〜〜〜(笑)」と笑い返せるほど、私自身全く自立していませんでした。
それどころか、この言葉で私はとても楽になったのです。
「これで、私はお母さんと同じように痩せられるんだ!」・・・と。
「もう悩まなくていいんだ・・・」
一瞬湧いた母への疑念はどこ吹く風で跡形もなく消え去り、母に有り難ささえ湧きました。
そして、同時に、これで母を守れる、とも感じていました。
長年、母が吐いている姿を見て当たり前と思っていてもそこに否定的な感情がなかったとは言いきれない自分にどこか母を裏切っているような後ろめたさがあったのです。
けれど、自分も吐けば、母と同罪・・・
これで私は母を裏切らずに済む・・・・

その日から、私の摂食障害がスタートしました。

摂食障害そのものについてはあまり語ることはありません。
いわゆる摂食障害です(笑)
徐々に痩せたい云々が理由というよりも、吐くことそのものが癖になり、
やめられなくなっていきました。

ヨガや玄米菜食を本格的に初めてからその癖そのものは影をひそめました。

けれど、私自身がよくわかっていました。
なにかのきっかけでまたスタートする程度でしかないこと。

なぜなら、そこにはまだ「吐きたい」という欲求が少なからずあったからです。
私の精神がちょっとでも不安定になったならば、またその癖は再開する。
そんな確信さえありました。

根本を突き止めたい。
そう思ったころは、母は脳梗塞を起こした後でしたし、母の状態をどう受け止めていくかで父とやたらに対決していた頃でもありました。
母の嘔吐癖は認知症になったと同時に消え、同時にあの強い美意識も消えていました。
モリモリと出されたご飯を残さず食べる母の姿に、父は喜んでいましたが、
私は取り残されたような寂しさが募っていました。
母の影響を浴びるほど浴びて成長してきた娘として、言うだけ言って、影響及ぼすだけ及ぼしておいて、勝手に自分はそこから出ていくんですか・・・?というやるせない想い。
突き止めたいと思えば思うほど、答えから遠ざかっていくような感覚、

結局月日は流れ、その瞬間が来たのは、父が他界し、母との対峙を始めてからでした。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

治癒する過程でこういう感情を掘り起こす作業をする時、切なくなる時が多々あります。
その当時の自分を今の自分とは切り離して一人の少女として眺める作業というのは、無駄な感情(擁護や言い訳等・・)を排除してただ見つめていくので、その当時は気がつかなかった傷口があちらこちらに点在しているのがとてもよくわかるからです。
《私》の歴史を見るというより、《一人の少女》のドラマを映像として味わっていくという感覚です。
どうしてもそこに《自分》のエゴが介入すると、言い訳を言いたくなったり、誤魔化したくなったり、嫌な部分は飛ばしたくなったり・・・するものですが、この作業には言い訳は通用せず、ただありのままその当時のドラマを頭で再現することで、痛みと同時に癒しが発生してくれます。

私の場合、摂食障害を治癒する目的で、母との対峙を始めたわけではありません。
前述してきたように、父が他界し、認知症の母へのやりきれない苛立ちが先立ち、対峙せずには先に進めなくなったから始めたようなものです。
母になり、育児する上で知らず知らず娘に《刷り込み》をしながら育てている自分を客観的に眺めているうちに、私に刷り込まれた《呪縛》となっている思い込みは何だろう?と歴史を紐解きたくなったのですから、娘サマサマです。

そして、自分だけでなく、当時の母を眺める作業を通して、《私の母》というよりも、今の私と同じくらいの年齢の一人の新米ママの姿、母の定義を超えたところ、生々しく痛々しく、そして愛らしい一人の女性がそこにいました。

母も悩める一人の女性だったわけです。

「女性は美しくないと!」と母が掲げるスローガンの背後には、
「美しくないと愛されない・・」という母の寂しさが隠されていました。
そしてまたその背後には、生まれた時から父不在で、仕事に埋没する祖母からも十分に愛を受け取れず、愛に枯渇していた母の姿がみえました。
頼りだったのは自分の美貌。
これがあればどうにか世の中渡っていけるのではないか・・という盲信。
自分の美意識と美への探究が母を支えていました。
やっと巡り合えた男性(私の父)もこれまた父母不在の孤独男(笑)でこちらも愛の表現がどーも苦手ときたわけです・・・(笑)
母は完璧な主婦として懸命に父に尽くします。
家をピカピカに磨きこみ、夕飯は料亭のように仕込み、着物でお出迎え。
父もまたそんな母に懸命に尽くします。
お互い、与えることで相手から愛をもらおうと必死でした。

母の最大の人生の誤解は
幸せが自分の外側から訪れるものだという思い込みでした。

美しければ・・・・
痩せていれば・・・
家事をきちんとこなせば・・・
やりくり上手ならば・・・

「・・・ならば」幸せになるんじゃないか、愛されるんじゃないか、という母の中の刷り込みが母を苦しめていたのです。

愛が自分から発生するものだと、幸せは誰かから与えられるものではなく自分が作り出すものだと、母が腑に落としていれば、鬱病で苦しむこともなく、嘔吐癖を自らに嘘をつきながら続ける必要もなかったのではないか・・・

そんな母の葛藤、苦しみ、もがき、あらゆる想いがある瞬間、それこそ走馬灯のように頭の中で駆け巡りました。

娘に「吐いたら?」と言ってしまった時の、母のやるせない気持ちも・・・。

ごぉ〜〜〜っと母の感情が流れだしました。

そして、その時
「美しくないと幸せになれない。」
という私の中にしっかり根を張っていた刷り込みを発見したのです。

母を眺めることで心の深底に隠れていた小さな私を見たのです。

そこには、ぶるぶると震え怖がっている小さな少女がいました。
「太りたくない。太りたくない。」その少女の中から叫びが聞こえます。

涙が出ました。
とまりませんでした。
「あぁ・・・これ私なんだねぇ・・・。大丈夫。太っても幸せになれるから。
太ったら幸せになれないなんてただの刷り込みなのよ。もうそこからでてきていいよ。」

「ごめんねぇ・・・長い間解放させてあげれなくて・・・」

思わず声に出していたようで、娘が「ママ??」とこちらを見たのでハッとして我に帰りました。
台所で家事をしている最中のほんの数十秒の出来事だったようです(笑)

そう、これついこの間、去年の出来事なのです。

その言葉を言った瞬間、雑草を根こそぎひっこ抜いた時のような感触を味わいました。

あぁ・・・終わったなぁ・・・
長かったなぁ・・・・

これが正直な感想です・・・(笑)

18歳からかれこれ20年間、私の中に根付いていた可愛くて困りものの小さな私から
色々な感情を教えてもらったのも事実ですから、今となれば、「ありがとう」
しかありません。

《恐怖》《怖れ》っていうのは、ほんと手強い、ですね。

自分が恐れているものなんだろう?って探そうとすると隠れるんですね、奴らは(笑)

全く別の角度から眺めた時に、ふとした拍子にひょっこり現れる。

そういう意味でも、親との関係性、親との歴史をひも解くって言うのは、色んな収穫があるもんなんだと、今回しみじみ感じました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私のこの経験が今摂食障害で悩んでる人達の助けになるかどうかはわかりません。

こういう問題は、安易に治癒するものだとも思いません。

なんせ20年間持ち続けていたんですから・・・!

けれど、私のように、ふとした拍子にふとしたきっかけで治癒することってあるんだってことをどこか心の片隅の空間にでもふわふわと浮かばせてもらえたらとてもうれしいです。

そして、悩んでいるのは貴方だけじゃないってことも(^_^)



| Body,mind & spirits | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ナチュロパシー
 自然医療をナチュロパシー
そのスペシャリストさんをナチュロパスといいます。
栄養学・メディカルハーブ・ホメオパシー・アロマテラピー・ボディーワーク・鍼灸など様々な自然療法をその時々に応じて用い、個人の治癒能力を最大限に引き出すお手伝いをする人のこと。

日本でも最近少しずつ聞き慣れてきたような気がしますが、日本ではナチュロパスを育成する公的な学校はないので、まだまだナチュロパスの人口は少ないのが現状です。

ドイツ、フランス、等のヨーロッパ諸国、オーストラリアなどでは市民権を得ており、ナチュロパスを輩出する育成機関も整っています。

ハワイでロミロミの勉強に行く前、真剣に行こうか悩んだ学校が↓
http://www.endeavour.edu.au/

オーストラリアでは、ナチュロパスになるため基礎医学を学んだあとに最低3つの自然療法を学び実習含め4年間専門機関で履修することが義務付けられています。
選択する自然療法は幅広く、ホメオパシー、鍼灸などまで専門的に習得できます。

日本では、鍼灸は鍼灸師、ホメオパシーはホメオパス、アロマテラピーはアロマテラピスト
と別れているため、どうしてもその個々の間の自由な往復に限界が生じますが、ナチュロパスならばその時々の状況に応じて柔軟に様々な自然医療を選択し提案することができるので、より的確なサポートが出来る点においてまさしくホリスティックな医療従事者ともいえます。
また、基礎医学もしっかり学ぶためアロパシー(西洋医学)との連携もとれます。

この利点こそがナチュロパシーの特質なのだと思います。

「なにがなんでも自然医療で!」「薬なんて一生必要ない!!」と頑なになることは時に危険も伴います。
アロパシーにしかできないことは山ほどあり、その恩恵を授かる権利を私達は持っているんですから・・・。

また逆もしかりで、アロパシーだけが医療か、というと、決してそうではありません。
この地球上には数多の素晴らしい自然医療が息づいていますからそれを利用する権利を
また私達は持っています。

先日、前述を上手く表す出来事がありました

娘の足にぽつぽつと赤い湿疹が出始めました。
掻くと広がっていくようで3か所から4か所、足から太股・・・と増えていきます。
初めはもしや水疱瘡?と喜びましたが(笑、早くなってほしいので・・・w)、どうも違うようです。水いぼか・・・?!
なんにせよ、こういう場合によく効くレメディを摂り、その箇所にはTeatreeの原液を少量塗布しながら様子をみていました。
tea treeはこういう細菌性にはテキメンに効いてくれるので常備オイルの一つですが、今回も塗った途端に掻くのをやめてくれたので広がることなく本当に助かりました。
それが何かを知りたくて皮膚科皮膚科につれていったところ、やはり水いぼ。
そして処方されたのが、水いぼに効く抗生物質入り塗り薬と抗生物質。
心の中で「いやいやいや・・・・たかだか水いぼで抗生物質はないでしょう!!」と大笑いしていましたが、後から調べてみると《水いぼには抗生物質》というのが日本では常識なのだとか・・・。
娘はその後レメディとtea treeオイルの併用で治まりナチュロパシーの恩恵に肖った出来事でした。

また対比する出来事として、去年私が起こしたドタバタ歯痛事件があります(笑)
歯が痛いなぁ〜と思った翌日から恐ろしい程に右頬が腫れ始め、もうパッと見誰かわからないくらいに(これほんと・・・)腫れに腫れ、土日を挟んだ為にさらに腫れ、レメディの効果もあるのかないのかわからないほどの痛みが続き、近くの歯医者に行った時には手おくれで緊急搬送(笑)。口腔外科で膿を出す切開手術をし、抗生物質を点滴し、やっとこさ普通の状態に戻ることができたのです。
菌が歯ぐきの根の部分で広がり、それが頬にまで増殖したため。
最近は歯の神経を摂る治療をされた人たちの間で結構広がっている症状のようですが、それが脳に達したら恐ろしい結末に・・・・!!
「抗生物質ありがたや〜〜〜」アロパシーの恩恵に肖った出来事でした。
(もちろん、このあと抗生物質排出レメディの恩恵にも十分あやかり、その反応で全身湿疹になったのは言うまでもありませんが・・・・)

・・・とこの二つの出来事は、私に、一つの方法に盲信するなかれ!ということを教えてくれたような気がしています。
「信じること」は大切ですが、「これしかない!」ときめつけることは盲信です。
それは、アロパシーにもナチュロパシーにも言えることです。
薬しか信じない人は、薬以外で十分に治癒できる数々の道を自ら放棄したことになりますし、
自然療法しか信じない人は、危険な状態を自ら招くことにもなります。

現代の私達は本当に恵まれていると思います。
だって、どちらも選べるという地点に立っているんですから!
両方上手に利用すればいいだけの話。

ナチュロパシーとアロパシーはよく対立の論議に利用され、こっちがいい、あっちがいい、と議論を醸す格好のネタになりがちですが、実はどちらも決して対立などしていないと思うんです。
「病をいやす」
という目的において、両方同じ方向を向いているのですから、それらが連携してチームとして医療に携われば、もっともっと多くの人のQOL(人生の質)を高めることが可能になる気がします。

だからこそ、日本ももっとナチュロパスの育成に力を注いでほしい!
鍼灸もホメオパシーももっと市民権を得て、総合的に学べる場が出来てほしい!

今の日本でナチュロパスのような存在になりたいと思ったら、3年間鍼灸の国家資格を取るために学校に行き、それとは別に4年間ほどホメオパシーの学校に行き、そしてまた別に、ハーブやアロマテラピーの資格を取り、ボディワークもまたまた別に学び・・・とそれはそれは日数も労力もかかります。
解剖学や基礎医学、栄養学、・・・など重複している分野がありますから、そこを共通して学べる育成機関があれば効率アップ!じゃないですか!
メディカルハーブやアロマテラピーは必須として、選択科目は、鍼灸・ホメオパシー・ボディワークに加え、漢方やアーユルヴェーダも加わって・・・フフフ。素敵!!

・・・と私の頭の中に長い間眠っていた夢をツラツラ書き出してみました(笑)
考えるだけでワクワクします♪

いつか現実になるような気がします♪







| Body,mind & spirits | 05:51 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
自然治癒力


出産のときお世話になった寺田助産院で初めてその存在を知ったテルミー。

茶色い棒状の灸で身体を全身くまなくさすり自然治癒力を高める温灸療法。

父の癌発覚と妊娠が重なり気持ちが不安定だった妊娠初期の時
これをしてもらって身体と心がとても軽くなった。
産後の産褥期、股の痛みや(笑)乳腺炎の痛みが出た時もテルミーをすると
とても楽になった。

父の癌の末期、これを毎日3〜4回びわの葉と併用して施していた。
父はこの時間だけは痛みを忘れるととても喜んでくれた。
「なんかこれをされていると、治る気がするんだ。不思議だなぁ。」
と言ってくれた。
父と娘のそれまでの関係性にはなかった二人の暖かくて優しい時間だった。

先日、我が家に宿泊したゆりさんもツアーの持参物にテルミーが・・・
毎晩欠かさずするのだとか。

私も最近毎晩欠かせないアイテムになっている。
娘が寝た後に、ゆっくりと首、肩、背中、お腹、脚・・・とテルミーをする。
ほどよい暖かさが身体に沁み渡り、独特のテルミーの香りが部屋に充満して
それがまた心を癒してくれる。

何よりうれしいのは、テルミーが乳幼児にもいいってこと。
ベビーの免疫力アップにもつながるし、精神を落ち着かせるのにもいい。
朱嶺のテンションがだいたい眠る直前にMAXになるのだけれど
テルミーを嗅がせると寝付きがいい。
面白いほどわかりやすい(笑)

ホメオパシーもそうだけれど、ベビーはほんとにわかりやすい!
あの効果の出方の顕著さを見ていると、ベビーの身体と心がどれだけシンプルかがわかる。
それに比べて大人の身体と心がどれだけこんがらがっていてややこしくなっていることか・・・
正直、ホメオパシーがこんなに効くものだってこと、私は娘を見ていて初めて知った。
大人じゃこーはいかない。
いまのところ一般の薬を飲ませたことがない。
ちょっとした発熱や下痢ならレメディだけで十分。
あと、突発性湿疹や、じんましんにはテキメンに効く。
基本キットは我が家の薬箱だ。
(ホメオパシーの極端な使い方で悲劇的な結果になったっていうニュースが出てホメオパシー自体が糾弾されているけれど、なんだかしみじみ日本人の国民性がでてる気がしてならない。
日本人は真面目で一途。
ドイツ、イタリア、インド、アメリカ、、、、等ではホメオパシーは市民権をしっかり得ている。
極端すぎる使い方をせずに、一般の薬も上手に取り入れながら使用すればあんな事件は起こらないはと思うのに・・・)

ステロイドを離脱してから10年。
様々試してみた代替療法。
自分の身体の感覚だけが頼りで、皮膚が答えを教えてくれた。
皮膚の答え通りに生きていたら、いつのまにか私の身体はあの頃に比べて随分単純になった。
一般の薬を飲んだことってここ10年ない。(妊娠時、子宮収縮緩和の薬を飲んだことくらいかな・・)

ある知人からどーやってそこまでアトピーが治ったのか・・って聞かれて、
そーいえば余りそーいうライフスタイルの事をブログにのっけてなかったなぁと思った。
そーいうカテゴリーを作って詳しく書いていこうかなぁとも思っているのだけれど
とりあえず簡単に今生活に取り入れていることをざざっと書きだしてみると・・・

玄米菜食《陰陽五行》が基本軸。
ここ数年は緩い感じで適度に魚や鳥・豚も入れてる。
緩んだなぁ〜と思ったら陽性寄りに、締まったなぁと思ったら陰性寄りに、って位で
あまりストイックにマクロビをしているわけじゃない。
陰陽の知識が頭に入っていると何かと助かるのは事実だけれど
四季折々の旬の食材を取り入れるのが一番手っ取り早い。
(今年の秋はやたら栗を剥いた・・・(笑))
牛乳は飲まない。(嫌いだから・・(笑))
なもんで家には常備していないけど、外食でクリーム系とかだと飲んだり食べたりする(笑)
ヨーグルトも食べる。(食べ過ぎるとカユカユが発生する・・・ならやめろって話だけど・・・)
卵は二日に1個のペース位。
あと、最近聞いた話では、玄米ばかりだと心臓によくないらしい・・・。
↑は体験して感じたことではないから実際どーかはわからない。
全粒粉系のパンもよく食べる。

季節かわりなく、常にストックしているのは《本葛粉》《梅干し》《ヨモギ粉》《しょうが》《レンコン》《大根》
ヨモギはかなり使える。
陰性寄りになりすぎた時はヨモギを溶かしてそのまま飲むときもあるし、
ちょっとした出血にはヨモギをすりすりしておけば勝手によくなっている。
風邪引きかけてる時は葛、下痢にも葛
葛もかなりの万能選手
喉が痛いときはレンコン、
熱が出たら大根湯、梅しょう番茶・・・・
生姜湿布やイモパスターなんかも使える。

塩も欠かせないアイテムのひとつ
ここ数年お気に入りの《済塩》っていう塩を使っている。
朝起きたらこの塩をちょっぴり湯のみにいれてさ湯を入れて飲む。
風呂にもひとつかみ入れる。
時には髪も塩で洗う(笑)
歯も塩で磨く。
育児で歯医者にいけないのに、歯痛が激しい時期があってどーしよー!!?と
おもっていたけど塩歯磨きを丹念にしていたら痛みがどっかにいってしまった。
恐るべし塩の力。
(でも、歯医者には行かないとなぁ・・あぁ憂鬱だ・・)

洗剤は重曹がメイン
重曹水に用途に合わせてアロマオイルを入れたりもする。
(市販の洗剤を使うとすぐカユカユが発生するからどんなに特売でも買えない・・のがときたま辛い・・)

掃除にも重曹水は使える。
電解水も使える。

あとは・・・
ハーブもよく使う。
とくにカレンデュラの花びらは常にストックしている。
湿疹が出た時、肌荒れがひどくなった時、あかぎれなどに煮出した汁でパッティングすると
驚くほどよくなる。
ただ、使っていて気がついたのだけれど、カレンデュラは頻繁に使用すると効果が薄れていく。
これを知らない人って結構多い。
カレンデュラには天然のステロイド的な効能成分が入っていて、これが皮膚炎にテキメンに
効く理由なのだけれど、ステロイドっていう薬の方向性と同じで、排出しようとしているものを上から
抑える《蓋》の役割をする。
一時的に皮膚炎に使う分にはかなりの効果を発揮してくれるのだけれど、多用しすぎると、自然に
治癒しようとする身体の働きを弱めてしまうし、排出したがっているものを上から抑え過ぎると、後から他の箇所がひどくなってしまうってこともある。
これ体験してみて感じたこと。

ベビー用のカレンデュラ入りのディクリームがかなり売れているみたいだけれど、
私個人的には「それってどーやろ?」と思っている。
ベビーなんて自然治癒力の塊みたいな生物なのにカレンデュラを多用するなんてもったいない。
ベビーの蕁麻疹、湿疹、発熱、下痢、、、、とかって全て「いらないもの排出した〜い!!」っていう身体のサイン。(大人もそうだけど・・)
《ほっとけば治る》っていうのが基本だと思うから、あれやこれや塗りたくったり摂取させたりする前に
ベビーの身体を信用して見守る時間って大切だなぁと娘育てながら実感する。
これがまた、なかなかどーして母親にとっては試練でもあるのだけれど・・・・(苦笑)

これは、カレンデュラはに限ったことじゃなくて、ハーブ全般、野草、にもいえること・・・
ハーブだって、一般薬や漢方と同じで、一種の薬。
頼り過ぎると、自然治癒力が弱まってしまう。

そもそも、人間には自然に治癒しようっていうすんごい働きがあること、
これが根っこだと常日頃思う。
ここんとこを腑に落とすには、何よりまず自分の身体を信頼することだと思う。
自分の身体を信頼できないから、「これがなければ生きていけない。」っていう依存心が
発生してしまう。

娘が生まれて始めたホメオパシー
これの面白さは、基本の軸が人間の身体をとことん信用しているっていう根っこから
生まれているから。
自然治癒力の動きを促すのがレメディの役割。
だから、合わないレメディを摂取しても何にも起こらない。
レメディと症状がぴたっと合うと、びっくりするくらい効果がある。
いったんレメディが効いて自然治癒力が動き始めたら摂取はしなくていいから
依存もない。
しかも、それぞれの多数のレメディはもっと深〜い精神に作用する。
そこも面白い。
けれど、ひとつ難点、というか私にとってのデメリットは種類が多すぎて名前が
覚えられないこと(笑)
もっと若いころなら覚えられたのに・・・とアラフォーの抗えない記憶力の低下を嘆く昨今。
地道に覚えよう・・・・


書いてたら長くなった・・・
こーいう内容は止まらないな。


アトピーになったおかげで見えたこと、感じたこと、たくさんある。
ステロイドに依存し、薬漬けだった10代〜20代
身体と自分の間に隔たりがあった。
自分の力ではどーにも扱えないお化けみたいな存在としてアトピーを捉えていた。
ステロイドを離脱してからのこの10年間
一年一年追うごとに、より身体と心が距離を縮め一本化していくのを感じている。
娘を産んでさらにそれは強くなった。


人間は動物だ。











| Body,mind & spirits | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
プログラム
※訂正版(再読したら文章と文章がへんてこりんにリンクしてたり、抜け落ちてたりしてたので訂正)

今朝起きぬけに、ざざ〜っと言葉が降りてきた。

言葉にする時は、そうやって降りてきたものをある意味自己解釈して文字に落とすという作業
をする。
この作業にいきつくまでの《ま》の処理は、自分自身がいかに《空》で
いられるか・・・ってところに因るところがとても大きいと感じている。

《ま》っていうのは、《間》でもあるし、《真》でもあるし、《魔》でもあるなぁと。

エゴをそこに落としこんでしまうと、どうしてもそのインスピレーションというものは
《真》にはならない。

ただ、
ありのままに見る
ありのままに感じる

在り様そのままが本来の《間》

・・・

深層で実に秩序正しく活動しているエネルギーを
そのまんまの流れで《間》に降ろすには
《恐れ》を解除する必要がある。


んで、話戻して、今朝は何が降りてきたのかっていうと、

そのまんま、エゴについてだった。


エゴって言うと、忌み嫌われる存在の代名詞のようになっているけれど

んじゃ
エゴが無かったらどうなのだろうか?

それって人間?

いやいや、人間じゃないでしょ〜という話(笑)

エゴに守られ、エゴに助けられ、私達は生きている。

でも、どーしてこーもエゴは悪者になっちゃうのか。

それはおそらく、〈振り回されている〉感があるから・・・

自分の意志とは無関係に好き勝手に暴れている怪獣みたいな存在として・・・・・・



私のある友人の話。(彼女には承諾済み)

今彼女は、ある事柄から自分を許せなくなっている。
自分を許せないあまり、自分とそっくりの子供まで許せなくなっている。
子供が強烈な鏡になりすぎて直視できない状態。

彼女はこれまで自分という存在を客観的に俯瞰した位置から眺めたことが
なかったという。。

これまで自分に疑問をもったこと、嫌気がさしたことがまるでなかった、
、世界は自分を中心に回っていると、本気で思っていたのだと、私に言った。

逆に私はそんな彼女を羨ましく思ったが彼女にしてみれば

これまで一度も顧みたこともなかった自分が一番嫌なのだ・・と。

だから、同じような行動をとる子供についついあたってしまう、そんな自分も嫌だ、と。

つまり、なにもかも嫌だぁ!!!となっている状態。

こうなってしまうと、私が知っている彼女の良さ、をどれだけ懸命に伝えたところで、それは裏表のコインのように彼女にとってはそれらが全て許せないわけだからどーしよーもない。

こういう時、冷たい言い方になるけれど、自分で這い上がるしか方法はない。
這い上がるっていうより、玉ねぎむきながらその一枚一枚を丁寧に見ていくしかない。

それはとっても孤独な作業だけれど、やる価値はある。

自分の意志で剥いていく過程で、

こんな、私。
そんな、私。

これもあれも、全部私。

も〜全部OKじゃん!

って許可が出せる。

すんごい大好きな自分のパーツもまた顔をだす。

抜けたとこから様々なパーツがよく見える。


エゴをなくそう!って思うから辛くなる。
変わろう!って思うからしんどくなる。


エゴってなくなるものでも、変えるものでもない。

出来ることって、変えることや消すことじゃなく、解除することなんだと。

エゴを意識的に見るようになれば、自分が何に恐れているのかがとてもよくわかる。

例えば・・・・

「わがままと思われること」への恐れ
「ケチと言われること」への恐れ
「非常識と言われること」への恐れ
「自己チューだと思われること」への恐れ
「小心者と思われること」への恐れ
「卑劣と思われること」への恐れ

・・・等など人それぞれだろうが、

結局のところ、私達が恐れているのは、人と人との関係性においての自分の姿

地球上に一人だけだったら、自分がケチか、自分が自己チューか、なんてわからないわけ
だから、当たり前っちゃ当たり前の話なんだが

自分が思い込んでいる自分の姿っていうのは、実のところ、関係性において作り上げられた
幻のようなもので、ほんとはとってもあやふやなもの。

けれど、人と人が織りなす世界で生きている限り、幻と言えどもそこを無視するわけにも
いかず、人は様々に、怒り、防御、逃げ、転嫁等の手段を使って、このエゴを処理しようと
《誤魔化し》をする。

《誤魔化し》ているうちに、どんどんその糸=意図の始点がわからないくらいこんがらがって
自分で自分をさらに苦しめる状況に陥ってしまうっていう悪循環・・・・。




逃げれば追われる。


だから、


逃げずに《見る》



恐れから発するプログラムを見つけたら、
あとはそれをひとつひとつ解除していくと

また始点に戻れる。

始点と思ったら、実は同じ始点ではなく、螺旋をくるりとしたところの始点だったってことになる。

深い部分で流れている純粋なエネルギーが巡り始める。

(このプログラムの解除には、ホ・オポノポノのメゾッドはとっても有効だなぁと
近頃私はもっぱらホ・オポノポノを実践中♪)



《恐れ》

これはひとつ、とっても大きなキーワードだと常々感じている。


《恐れ》から発している限り、それはいつまでも《愛》には変換されず、
自分が身勝手に作り上げるドラマに苦しみ、
自分のみならず他者まで巻き込んでしまう。


もちろん、人には持って生まれた魂の性質ってのがある。
娘をみていてもしみじみ実感する。

ただ、その性質にラベルを貼っているのは誰?
と疑問をなげかけていくのはとても大事だと思う。

ひとつの性質に
「わがまま」というラベルを貼るのも
「天真爛漫」というラベルを貼るのも

それは自由だけれど

他者が貼ったラベルならいったん剥がしてみて
それでも貼りたかったら自分で貼り直したらいい、
と私は思う。


自分で貼り直した時、
その性質は好き勝手に荒れ狂うことはないはず。


もちろん、貼り直す必要を感じなかったら、剥がしたまんまにしておけばいい。


そういう作業の過程において、より自分の魂の持つ質感がリアルになる。

自分の魂が持つ役割が鮮明に映し出されてくる。


そんな気がする。



実は、こういう事って、書くのにとても躊躇する(笑)

けれど躊躇してる自分を眺めた時

気がついた。

自分の《恐れ》から発するプログラムに。

「わかったようなこと言っちゃってさ」と思われることへの恐れ

ははぁ〜ん。私の恐れをみーつけた!と

プログラムを解除してみた。

だって、私は、今こう思っているんだから

これが一分後変わっていてもいいんだ!と

許可を下ろした。




日々、毎分、毎秒、プログラム解除していく生き方


私は結構気に入っている。



| Body,mind & spirits | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
《今 この瞬間》!
前回のブログを読んだある友人からとっても率直なリアクションをもらいました。

「あゆは彼と過ごした時いつも楽しくなかったの?あゆの言ってる《今》ってなに?」


なるほどなぁ・・・そっかぁ・・・

私はそんな素直な反応をくれる彼女ってすごいなぁと思いました。

少なくともそう感じている人は彼女一人ではないだろうと思いました。

なので、

ああいう誤解されやすい記事を書いた以上責任もありますから、
私なりに今書ける範囲でお伝えしようと思います。
(なので、いつもと違い《です、ます》調になってます、(笑))


そもそも
 
《今、この瞬間》ってなに?って話なのですが、

おそらく、誰しも感じたことがあるフィーリング。

《YES!》《YES!》《YES!》っていう感覚!

なんにもしていなくても、欠乏感がない・・・

そこには自由が限りなく広がっていて、

爽やかで、暖かくて、気持ちよい 

そんな空間に身を浸してる瞬間の連なり


んん

言葉にするのは難しいです・・・ね。


あっ、今ふと浮かびました。


Living with rhythm of harmony


これが今の私の感覚と近いようです・・・

魂と寄り添い調和のとれた一体感



私の場合、《この瞬間》っていう感覚は頭じゃなくて身体言語として受け取っていたんだなぁと
今になってしみじみ感じています。

ヨガやっている時もそう。
海の中で魚と泳いでる時もそんな感じ。

今だと、朱嶺と二人ベッドで横になってまどろんでる時なんかそう。
あっ、出産もそう!!!(笑)

あぁ〜地球っていいなぁ。
生きてるってサイコーだぁ!!って
ブラボー!って(笑)


私の場合は、《今》って瞬間を味わう入口が、ヨガだったり、素潜りだったり、旅だったり、
と身体を使う手段から先に入りましたが、入口は無数に存在するもの。

どんな扉から入ろうが、一度でもこの《今》って瞬間を存分に感じたことがあれば、
少なくとも、現状の自分が《今》を味わっているか否か、だけは明白にわかってしまいます。

今思えば、あ〜いう一瞬は神様のいたずらのようなものだったのかもしれないな・・・と思っています。

ヨガをしてない時の私
海に入っていない時の私



この瞬間の醍醐味が存分に味わえてないってことはなんでなんだろう?

ってなって、やっとここで自分との対話が始まりました。

ここからが私の本当の旅のスタートでした。(もうかれこれ6年前になりますね・・・)


外付けの装置、例えば衣食住等、は、確かにとても大事ですし、きっかけになるという意味でも、良い状態をキープするという側面でもとても価値があるものですが、もしそれらに縛られるとなると、そこからは何も見えてきません。
見えないどころか、私の場合完全見失ってしまいました(笑)

結果、
《今、この瞬間》を邪魔しているのが、明らかに自我《エゴ》だということが、心底腑に落ちて、
やっと、自分のエゴを見る勇気が出ました。

って、以前のブログでもよく書いてました、、、ね(笑)

自分の闇、影、ってやつです。

あの当時、とことん見たつもりでいましたが、今でもまだまだわんさか出てきます(笑)


ただ、あの当時からいささか成長したかな、と思うのは、
エゴを見ること、知ること、意識的になることは、《今この瞬間》を生きるために大切ではあるけれど、そこに縛られたら意味がないということに気づいたことです。

エゴを見ることが目的になったら、ずっと《今》を生きることはできないまま・・・
あれれ?本末転倒じゃんってことになってしまうな・・・と。

エゴなんて、創造しようと思えばいくらだって出てくるものなんです、ね。
だって、そもそも思考の創造物ですから。
外界と接する、ってことは、そこに必ず影ができますから、エゴはつきもの。

私のエゴを羅列しろって言われたら、いくらでも出ますよ〜(笑)

自意識が強い、羞恥心が強い、自己憐憫が強い、傷つきやすい、我が強い、小心者、敏感で人の心の変化をキャッチしすぎる、ごまかしがきかない、気性が激しい、同情心が強い、絶対的権威を嫌う、自虐的、強い挫折感を持つ、他人の痛みと同一化する、尊厳を脅かされると牙をむく、ストイック、心配性、内弁慶、批評癖、あがり症、依存癖がある半面一人になりたがる、頑固、、、

まぁまぁ、まだまだ出てきます(笑)
(結婚生活の御蔭もあり、隠しきれないエゴがどっさりでたところでもあります。)

相対的なものだから、その数の分だけ裏側の側面もあるってことになります。


そういう数々のエゴの側面に意識的になるのがなんで大切なんだろう?って思ったときに、

はぁ!そうか!と腑に落ちたのは、

そこに埋没することと、意識的になることは、まるで対極なんだ、とわかったからです。

《エゴをまるごと受け入れる》《エゴに愛を送る》

って聞いても、実はイマイチピンときてなかったんです。

なんでピンときていなかったかっていうと、エゴがそのまんま私の姿だと思っていたから。

エゴに意識的になるってことは、エゴと本当の自分(魂の部分っていうのか、私はまあるい小さな地球のようなものをいつも想像しちゃってますが)との間に、いい感じのスペースができるってことなんだなぁと。
それが腑に落ちて、エゴの受け入れ方ってのが若干上手になりました(笑)

スペースができると、眺めるってアクションがとれるようになって、魂と寄り添う時間、《今》を味わう時間が、おのずと増えてくる、ってことなんでしょう。

エゴに埋没してしまうと、エゴが自分だと思い込んでしまって、そこから抜け出せなくて、エゴそのものになってしまい、結果エゴの思う壺。

無意識でいるのは、四六時中エゴに支配されちゃっている状態だから、もっと大変です。


とは、言ったものの

残念ながら、私の段階では四六時中《YES!》って感じていることはないのです。
はっとすると、もやもやもや〜〜んと過去に引き戻されたり、感情そのものになっちゃったり、思考の渦に巻き込まれたり、他者の感情に引っ張られたり・・・・多々してます(泣)

そんで、そのたびに、「お〜い!またやっとうばい!あんたはここ!ここ!」と私を呼び戻し、「よし、よし!それでよし!」と頭をなでてあげてるよーな、そんな段階なのです(笑)

そんな《YES!》っていう瞬間の感覚になるべく寄り添いたいし、自分に正直であり続けたい、というのが今の私なんです。

螺旋をひゅるりと巡っている間に毎度毎度強烈なエゴに再会しちゃってるとほほな私ですが、
そんなエゴに対して「まだ成仏してなかったのですねぇ」と有り難さえ感じている今の私がいます。

だって、エゴ《自我》って自分をめちゃめちゃ守ろうとしてくれていた、いわば自分が欲して作り上げてしまった幻想だから、それ否定しちゃったら、’なんならん’とです。(これ筑後弁!笑)



彼といる時、継続して《今》を感じていなかったということではもちろんありません。
彼の《今》と私の《今》が衝突して出会ったし、別れる時も《今》と《今》が衝突した結果です。
楽しい事は山ほどあったし、腹抱えて笑ったことも山ほどありました。
あんなに私が素直になんでもぶつけられた人っていうのはいなかったな、って思うほど
良くも悪くも彼の前ではいつも正直な私がいました。
ヨガもなんにもしていない彼ですが、こんな私の言う事をとても理解してくれていました。

ですから、(どこの夫婦も似たり寄ったりかもしれませんが・・・)喧嘩しよーと、意見が食い違おうと、彼との人生を、「まだまだやれる!」とそのたびに選択し続けていたわけです。
彼も同じだと思います。

前回のブログで、「お互いがそれぞれの欠落を埋め合うことで必死だった」と書きましたが、
それだって、結婚生活やっていく中でお互いがそこに気がつき、修復する道だってあったはずです。

結婚生活やっていく中で「彼を見ていなかった私」を発見し、そこから「彼を見る私」に変化していたという選択だってあったはずです。


ですから、私が前回書いた事というのは、《離婚を選択した私》が書いた結果論にすぎないんです。


今の段階ではっきりと自覚できているのは
《発端》がなかったら、少なくとも今の段階で《離婚》という選択を選んでいた自分はいなかったということです。

あの瞬間の私と彼が、今の状況を作った、という事なんです。


考えてみれば、とてもとてもシンプルなことなのです。


それこそが私は、《今》という瞬間がもたらすパワーなのかもしれない、と思っています。


私にとって、あの瞬間のハプニングはそれほどの威力を持った出来事でした。

《今》しか存在しないんだ、ってことを、めちゃめちゃ強烈に教えてもらいました。


そして《私の今》と《彼の今》が衝動的に起こしたハプニングは、

改めて、私自身の魂の性質っていうのを垣間見るきっかけをくれた、ということなのかもしれません。






だからこそ、


目を見開いて、耳をかっぽじって、肌センサー全開で

目の前の世界を、

ハートを開いて

自分の内側を、

見る人間でありたいなぁと思っています。



あっ、明日からジジババと京都に行ってきまあす!
早く寝らんと・・・


| Body,mind & spirits | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
意図と結果
笑うこと
泣くこと
怒ること
掴むこと
歩くこと
学ぶこと
話すこと

書くこと

創ること



人間は様々な行為によって時間の流れを漂う

朱嶺の目覚ましい成長に日々寄り添っていると私自身がはっとする瞬間が度々ある。

彼女は少しずつ《意図》を持ち始め外界と接するようになっている。

つまりは彼女の内部に少しずつ《エゴ》が芽生えてきたということ。

人間の起こす行為には全てそこに《意図》がある。
透明なものであれ
不透明なものであれ


赤ちゃんが泣くこと笑うことは外界に自分という存在を示す行為

「私は今楽しいよ」
「私は今悲しいよ」

「私は今ここにいるよ」

「私に気づいて」


そんな朱嶺のピュアな欲求=意図が私に直球で伝わる。

私はそんな笑顔や泣き顔にいちいち心躍る。

朱嶺は少しずつ少しずつ外界を感じながら学ぶ。乳が欲しい時の泣き方、眠たい時の泣き方、
抱っこして欲しい時の泣き方を絶妙に変化させどんな行為をとると私がどうしてくれるかを
本能で学ぶ。
赤子のそれは無意識だ。
意図が単純で計算がなく純粋な欲求だ。

あぁ、エゴとはこんなに美しいものなんだ。
毎分毎秒あかねの行為は私を溶かしてくれる。

私達人間は小さな頃からどれだけ外部からの後付けの刷り込みを重ね
《エゴ》そのものを歪めてきたのだろう。

なんて《エゴ》はこうも美しいのに愛されず疎まれ続けてきたのだろう。



大人である私達も瞬間瞬間様々な欲求=意図につき動かされ行動している。

人間が肉体持って生きている限り欲求という本能と切り離して生きていくことは出来ない。

何故なら欲求こそ創造の源だからだ。
生きるというそのものだから。
意図は行動そのものだから。

人は瞬間瞬間選択を余儀なく行いそこに創造物を生み落とす。

その創造物は自らが生み出したものであるから当然そこには《結果》が導かれる。
その《結果》に自己責任が伴えないものであったとしたならそれはまっすぐに立ち上がる
透明な欲求から生まれたものではないという証だ。
自分の魂から沸き上がる純粋な欲求ではなかったのだ。

大人になるにつれ垂直に立ち上がる欲求と後付けの《条件つきの欲求》とが混在していく。
そして欲求そのものこそが悪の根源のような刷り込みさえ植え付けられる。
エゴは隠すべきものだと信じこまされる。

そうやって小さな欲求達は出口のない暗闇に閉じ込められ行き場を失い
無意識の領域へ追いやられる。

大人になり
無意識の領域へ追いやられた欲求達は事あるごとに無意識の行動に乗っかって現れる。

けれどエゴを隠すべきものだと刷り込まれた大人はその無意識の行動が
行き場を失っていた過去の欲求達から発生したとは気がつかない。

そんな無意識からやって来た欲求がもたらす結果は表明的な意図にそぐわない。

なぜならその結果には条件が付随していないから。

そして思うのだ。

「こんなはずではなかったのに」



自分の欲求=意図に意識的であれば結果は自らが生み出している実感があるはずなのに。



自らの魂から生まれた欲求なのか
刷り込みで生まれた条件つきの欲求なのか

気がつかなければその欲求はいつまでもくすぶり続け解放されない。

欲求を押さえ付け穏やかに生活しているつもりでもその歪みはいつかどこかで芽を出す。

《これが私そのもの》だとまるごと自分を受け入れたいのなら

やることは一つだけ

ただ意図に気がつけばいい。
一つ一つ一瞬一瞬の細かな自分の行動の源をたどればいい。


それだけでいい。

人はそのままでまるごとOKなのだから

誰が認めてくれなくても完全で完璧なのだから、、、

| Body,mind & spirits | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
選ぶということ 選べないということ
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久々にPCからの投稿〜〜♪
ソフトバンクモバイルとやらをゲットしたので実家でお気軽インターネット。
一応、夜間電力で節電かね、あかねたんを寝付かせてからが
おかあちゃんの自由な時間。
イーモバの回線を使っているのに固定額もお安くいつでも解約できるんだってさ。
なんてラッキー!と店員さんの言うがままに契約しちまったけどどーなん?

近頃、ほんとーーーーにじっくり考えさせられる事だらけ。

愛娘に一日中振り回されているドレイの身であることは変わらずだけれど
近頃はママ業も板についてきたのか(ほんとーか?!)ポンと隙間があく。
その隙間はもっぱら読書。これも相変わらず。
そのまた隙間にごぉ〜〜〜っと吸い込まれたかのように思索にはまる。
あっ、これも相変わらずだった。

この2年近く、そーいえばあまりこーいう読み方してなかったなぁ・・って思う。
うんうん、懐かしい感じ。
この腑に落ち方加減もつまりはおんなじ。

変わったことっていったら、「赤子っちゃこげん可愛いったいねぇ〜〜!!」っていう
自分の母性への驚き!
このままいくと私は「うちの子に限って!!!」とモンスターペアレンツとやらに変貌をとげ、
あかねから離れられないダメ親になっちまうんじゃなかろーか・・・・・
そーなったらそーなったで、、、、うん。
その時考えよう・・・。

考えさせられるっていうと、一も二もなくやっぱり原発。
たまたま今この九州っていう安全な地に住んでいてたまたま今回被害にあわなかっただけの話。
常にこういった人的脅威にさらされているってことで全くもって他人事ではない。



震災は自然の災害

原発は不自然な災害

最近《自然》って言葉と《選択》って言葉がやたらひっかかって抜けない。

《自然》ってのは
Natureの自然であり
Naturalの自然である

あるがまま、の自然。

それは極々プライベートな問題から始まったわけだがそれがどんどん膨らんで結局は地球、そして宇宙にまで達してしまった。

《私》という一個人は日々瞬間瞬間なにがしかを《選択》しながら生きている。

朝起きて茶をのむかコーヒーをのむか。

そんなところからもう何かを捨て何かを選んでいる。

今も私は超自然体の娘を隣に彼女の今後に左右しかねない諸事に思い巡らしている最中だ。
私にとって、彼女にとってあるがままの《自然》ってなんだろう?

今、私はそれを問われている。
胸に手を置きながら
一つ一つ問いながら
それらが《恐れ》や《不安》から発していないかを自分に尋ねる。


私達はそもそも地球って惑星に生かされている身だから、自然が生み出す創造物に逆らうことはできない。

《自然》には太刀打ちできない。
だってそこに選択の余地はないから。
なぜならそれは地球、いや宇宙の《自然》だから。
宇宙の意志が決めた選択だから。
嘆こうが喚こうが私達人間は従うしかなく、そこから立ち上がり進むしかない。
(事実、被災者の方々のひたむきに現実を受け入れて歩きだしていらっしゃる姿にはただただ畏れ入るばかり・・・)

けれど原発事故はどうだろう。これは明らかに不自然な災害ではないだろうか。
そもそもそこには選択の余地が明らかにあったはずなのだから。
歪んだ組織は《自然》のあるがままの脅威を前にして溜まった膿を垂れ流し責任を次から次へと譲り渡しついには行き処を無くしてしまった。
《不自然》な行為が招いた惨事の後始末ほど厄介なものはない。

ってね、素人がわかったよーな事いうもんじゃないかもしれない。
そんなら、あんたさん、明日から電気使わないで生活してごらんなさいな、と
言われたら、私にそんな勇気はない。
結局、現代社会に生きている私達が肝心要を他人任せにしすぎて一個人の自分っていう存在を
あまりに信頼していなさすぎなんじゃないかって、そう思うのだ。
選択の余地があるものを、自らの魂で選択せずに、こーなるまで放っておいた自分達、
いや、自分に対してやたら腹立たしいのだ。

今回の事故は、私自身の根っこの部分をやたらつかんで離さない。


この世の中
全て、ミクロはマクロを、マクロはミクロを内包している


ミクロが変われば、マクロが変わる。

私達人間は宇宙のミニチュア


周りを変えることはできないが、自分が変わることはできる。

だから・・・

私にとって私があるがままに生きるということしか選択の余地はないのだ


これからも、そしておそらく命尽きるまで

この《あるがままの私》は私に問い続けるんだろう


そこに恐れはないか

そこに不安はないか

そこに怒りはないか

そこに救いはあるか

そこに光はあるか

そこに愛はあるか







| Body,mind & spirits | 08:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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