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ニューアース

何度読んでもそのたびに気づきをもたらしてくれるのがこの本です。



今もまた本を開き始めました。



この本は、いわゆる「スピリチュアル系」と分類されるものとは一線を画しています。

善し悪し抜きに、違う、のです。



何が違うか、、、、、



ファンタジー的要素を徹底して取り除き、徹底して《エゴ》の正体を暴いているところ。


心の平安にたどり着くには、自分を不安定にしている構造体の正体、いわゆる《エゴ》を観る

ことだ、と彼は終始語り、その実体、そしてその観方、を簡潔、且つ、詳細に語っています。


この本に出会ったのはもう随分前になりますが、何度読んでも気づきがあり、読むたびに自分の経験と重なりそこからの一歩を与えてくれるとても貴重な一冊です。


この無駄を省き本質のみに迫る手法は、ヨガをやっている私のような分類の人間にはとても受け入れやすかった、のかもしれません。

もともと、私は心よりも頭が先に動くタイプ。

と、いうと語弊があるかな。

インスピレーションよりも思考が勝っちゃうタイプ。

この方がしっくりするな(笑)

なのです。


そこそこにお勉強をやってきた(そこそこ、、、ってところがこれまた厄介です)人に多いのではないかしら、と思われます。


自分の小さい脳に人生を縛られてしまい、脳で考えた思考こそが答えだと疑わず、その不安定な思考が揺れるたびに自分そのものが揺らぎ、その不安定さをどこかしらで安定させたいという無意識な欲求が、他者との間に壁を作ったり、そこから目を背けたり、どこか外に答えを求めたり、あるいは、ストイックなまでに何かに打ち込むことでその障壁を取り除こうとしたり、、、、

いろんな手段を講じて、その不安定さと《闘い》、、、自分を保持しようとしてしまうのです。


そんな人間に、彼は本著の中でこう言います。



「そもそも心=《エゴ》とは不安定な構造体なのだ」



「その不安定なエゴと自分を同一視してしまうことが、全ての苦しみの根源だ」


《同一視》


これはこの本の中で度々でてくるキーワードです。

英語でidentify(名詞:identity)



脳をもって生まれた私達は、生まれてすぐから様々な事柄と事柄をidentifyしていきます。


娘を観ているとこの作業の過程がとてもよくわかります。


ひとつひとつラベルつけすることで外界と自分をつなげていきます。


お腹がすいた私の口になにやら含ませてくれているこの目の前にいる人は・・・ママ。


ママという言葉は、おそらくたいていのあかちゃんが一番先に学習する言葉

頭上のきれいな青いものは、空。

その青いものの中に浮かんでいるのは、雲。

その空から降ってくる冷たいものは、雨。


そうやって言葉と世界の事象を結び付けることで、自分外の世界を理解しようとしていくわけですが、

これは、一方で自分と世界に境界線をつけ「縛り」を作っていく作業でもあるわけです。

娘を見ていると成長を嬉しく思う一方で、「あぁこれが苦悩の始まりなんだなぁ・・・」なんてちょっぴり

切なくなったりもしています。



私たちがこの世界で生活していくにはあらゆるものをidentifyしていく必要があります。

identifyするからこその喜びがあり、楽しさがあります。

苦悩も生まれてきます。

そして、疑問や葛藤も生まれてきます。


それもそのはず


そもそも、事象に名前なんてありません。

私たち人間が生活のために作り出したものに過ぎません。

その言葉に踊らされていては、葛藤はいつまでもいつまでも続いていきます。


「悲しんでいる」自分を「悲しい自分」だとidentifyし

「怒っている」自分を「怒りんぼの自分」だとidentifyし

あらゆる感情と自分をidentifyして生きている、その常態から

悲しんでいる自分を、「悲しんでいるんだなぁ」

怒っている自分を、「怒ってるんだなぁ」

一つ一つの湧き上がる感情と自分とを切り離していく作業、、、

それが、同一視から離れる一歩。


この本は、言葉と世界の間にぴたーーーっとくっついていた接着剤を溶かす力を持っています。


海も

木々も

土も

風も

太陽も



本当はみーんな名無しの権兵衛さん(笑)


言葉に縛られている、自分をただ眺める

そうすると

海は海じゃなくてもいいんだ

風は風じゃなくてもいいんだ


ってことを知る


頭の中を駆け巡る言葉たちにちょっとの間お休みしてもらい



言葉に縛られていない事象そのものをただありのまま感じると



五感がいっせいに動きだして今まで気が付かなかった感覚が芽生える


自由

ってのは

そーゆうこと(^_^)

























| Books | 06:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
一冊
評価:
茨木 のり子
童話屋
コメント:娘にいつの日かささげたい大切な一冊

旅に出るときに一冊しか持っていけないとするなら、私は迷わずこの本を選ぶ。

大切な大切な一冊・・・・

読む・・・というより

感じる

一つ一つの言葉がきらきらと、凛と、命を吹き返して、踊りながら、滑りこんで
私の胸のずっと深い場所に着地する

ぎゅっとつままれて、その痛みをただ感じていると、ふわっと緩んで、そのあとに優しさに包まれる

閉じた後、ただただ感謝に溢れる

ありがとうございます・・・・






自分の感受性くらい


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

ダメなことの一切を
時代のせいにはするな
僅かに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

| Books | 05:21 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
ホ・オポノポノ
評価:
イハレアカラ・ヒューレン,KR女史,平良アイリーン
サンマーク出版
¥ 1,500
(2010-04-21)

二年ほど前に、友人から一冊の小冊子が送られてきた。
本の題名は《ホ・オポノポノ》

I'm sorry
Please forgive me
Thank you
I love you

この四つを唱えること、それが自分のふかぁいところをクリーニングするという。

ふむふむ。
なるほど。
そりゃすごい。

・・とは思ったものの

実は、これ始めたのつい最近のこと。

その小冊子を手にしてから、そのあと立て続けに数人の友人達からも「ホ・オポノポノ知ってる?」
という話になったりして、
「なんなのなんなの?みんななぜ故ホ・オポノポノ?」
と妙なシンクロで、今思うとサインはいくつも頂いてたのだけどこれまたどーも始める気にならなかった。(←ココが私のいかんともしがたい頑固さだな)


正直なところ私のマインドは

「確かにすばらしい方法だ。でも・・・・それに似たことやってるしな・・・」
「マントラのようなもんだよなぁ」
「祈りだって同じだよなぁ」
「言葉を言うだけってのがなぁ・・」

そういう類の否定的な感情となんか気になるなぁっていう肯定的な感情が五分五分。

それ以上もっと深く知ろうとするアクションは結果とらず。

よーするに、私はやりもしないで自分は《分かっている》《知っている》と勝手なきめつけをしていた。

二年前は、私なりに別のアプローチでbody,mind,spiritの扉を模索していたから、簡単に言っちゃうとホ・オポノポノを実行するスペースが内側になかったのかな、とも思う。



今回始めるきっかけは、これまたある知人のおかげ。

つい最近、一緒に本屋に行きおすすめの本だと教えてもらったのが、この《ウニヒピリ》だった。


なぜだろなぁ。
この時はとってもすんなり受け入れられた。

パーフェクトなタイミングってやつなのかな?!


さっそく家に帰って読んでみた。

実にあっさりシンプルに書かれているからか、読んだ後やっぱり物足りない。



ふ〜〜〜ん。



そっか〜。



で?




と、なりかけた。

これでまたお蔵入りなのか〜

と思ったその瞬間

「待ってん!もう一度よんでみてん!」

ってハートの声が言った。

確かに言った。

博多弁で(笑)


声に従い、もう一度読んだ。(←最近心の声には問答無用でアクセプトしてます・・笑)
今度は、ゆっくり読みながら、その都度、その都度、感じる思考や感情を
丁寧にすくいあげ、クリ―ニングしてみた。

ひとつひとつ、持っている《縛り》を解いていく。

あらゆる《縛り》=意識の中に眠っている選民意識や分離意識などから生まれた小さな小さな歪までが、ふわりふわりと浮かんでくるかのよう。





読み終わった後、一度目と全く違う読み物が目の前にあった。



悲しくもないのに、涙がどんどん溢れてくる。

とってもふか〜いところが暖かくなってくる。


なるほど、そーいうことか!
ホ・オポノポノのすごさっていうのは、このシンプルさにあるんだ!!!

この本は読む為の本ではない。
実践するための本だ。

一瞬一瞬ウニヒピリ《潜在意識》からの合図に心を向け、その都度丁寧に会話し、
I love you と伝える

その連続的な行為がウニヒピリ《潜在意識》をクリーニングすることになる。

余りにもシンプルなこの方法。
だからこその奥の深さ。

友人にこのことを伝えたら

「博士も言ってたのよ。《この方法がもっと難しかったらもっと広まってるだろう》って。
簡単だから難しいんだよねぇ。」


!!!


そう!そう!


私も含め、人って簡単すぎるものにはまらない傾向ってある。
実に簡単な構造をややこしくしてることに満足する傾向。

おそらく、それは(怖れ)から生み出されている傾向。

前のブログで書いたことを思い出した。

アシュタンガヨガが、もし、もし、あれが太陽礼拝A&Bだけのメゾッドだったなら
人はあんなにはまるのだろうか?って疑問を感じた時があった。

本来の目的は、自己を眺める=エゴを超越する

それがそもそものヨガの本質

でも次から次に新しく頂くアサナに没頭することでそこからある一定期間回避できるとしたら?

そーいうやり方してる限りそれは単なるトリックの中で泳いでいることにしかならない。

↑前はそー思ってた。
そんなの意味ないヤーン!って。

でも、今はちょっと違う。

どんなに逃げたって所詮それは一定期間
逃げたかったら逃げまくっていいんだな、と。

浮かび上がってくるまで、待つ。
ほったらかしにする。
それでいいんじゃなかろーか。

一つ一つ立ち止まるのも、スルーするのも、それぞれの魂が選んでいること。


ただ、言えることは
単純で簡素なものほど真実をつきつけてくれる、ということ。



アサナには一つ一つ素晴らしい効能がある。

自分とアサナとの間で交わされる内側からの声に耳を澄ませ五感を超えたところでキャッチすることで初めてアサナの効能は身体の隅々に目覚ましく働きかけてくれる。

アサナを通して身体のブロックを一つ一つゆるめることで、細胞が活発に動き出す。

つぼみが花開くように・・・

その開花までの一連の活動は
body,mind,spiritをとんでもなく変貌させてくれるほどのエネルギーを持ってる。


だから、ただ見てみる

アサナしながら呼吸しながら

自分の内側を・・・

浮かび上がってきた感情、思考を出来る限りそのまま押し殺さずに

今この瞬間をリアルに受け取りながら


悲しい・・・
何が?

寂しい・・
どうして?

痛い・・・
どこが?

むかつく!
何に?

怖い・・・
なんで?

嬉しい!
良かったね〜(笑)

気持ちいい〜!!
サイコー(笑)


浮かび上がってきてくれた感情や思考に

私を今まで必死に守ってくれてたんやね〜

ありがとねぇ・・・

って伝える

でも、もう必要ないみたいだから手放すよ〜

って伝える

それでも

私は私を

愛してるよ〜

って伝える

(どーしてもそー思えないときも、やっぱり伝える(笑))



最近の私のヨガはもっぱらこんな感じです。

ホ・オポノポノもヨガも、つまるところ、同じです(笑)

ついでに育児も同じみたい。












| Books | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
人間の建設





















評価:


小林 秀雄,岡 潔


新潮社




¥ 380



(2010-02-26)



コメント:人と人はこんなにも素晴らしい雑談ができるのか・・・!あぁ、たまらん





















数学者 岡潔と愛すべき小林秀雄の対話集

昭和40年の対話であるのに、ちっとも古くない。
アインシュタイン、量子力学、幾何学、プラトン、ドストエフスキー、エネルギー問題・・・などなど
あらゆる分野の根本を問い、潔くリズミカルに対話が進む。

あぁ、こんな本が380円だなんて、どういうことだろうか。
あほみたいな本が数千円し、こんな宝物のような本がスタバで一杯とは・・・
世の中、やっぱり変だ。

小林秀雄のすごさというのは、発する言葉の隅々から人の奥底を見る力とでもいうのか、見つめる人なり物なりの中心に分け入って言葉を創っていく作業能力というのか、、、、、
その洞察力たるや群を抜いていると思う。
なぜ、そうなのか、と思った時に、彼自身も言っているが、やはりそこに《愛》がなければ深く掘り下げることはできないのだという、愛の持つ普遍的な方向性に小林秀雄自身がぐっと信頼をおいているところではないかと思う。
そして常に断片だけを拾わず、全体の有様を把握する為直感に情熱を注ぐ。


この人は、とことん愛の人なのだ。


そして、今回初めて文字として岡氏の人間性を拝読し、数学者というのは、なるほど、とことん数
を相手に生きている人っていうのはこういうことなのか、とやけに腑に落ちた。

この方の一の概念

「一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。
しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。
しかし、数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。
自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。
その時の一というものの内容は、生後18カ月の体得が占めているのではないか。
一がよくわかるようになるには、全身運動ということははぶけないと思います。

私が、今立ち上がりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。
そういうのが一というものです。
一つのまとまった全体というような意味になりますな。
一の中に全体があるとみています。あとは言えないのです。
個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。」


この人も、愛の人だ。


こういう人と人が、対話を始めると、お互いの心を浸食することなく、中間に置き、それぞれの心を大切に扱おうとする敬意がみられ、そこから建設的に言葉が紡がれていく。

本来、言葉っていうのは、こういう扱い方をされるべき存在なんじゃないか、、、、と思う。


あぁ〜〜嘘、裏切り、茶番、出来レース、言葉の品格を貶める政治家のおじさま達にもぜひ見習ってもらいたい。


| Books | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
放射能から子供を守る!

veggy steady go が5月31日に発売した雑誌

まだ未読だから感想は言えないのだけれど、こういう女性に身近な雑誌が放射能を取り上げるっていうことはとっても素晴らしいことだと思う。(吉川メイちゃんも載ってるみたいです♪)

乳児を持つ親として放射能について、原発について、エネルギーについて、最低限の情報は知っておきたい。

最近強くそう思うようになっている。

恥ずかしながら私はなんにも知らなかった。
原発の恐ろしさも、当たり前に払っている電力のことも。
だから、今回の大惨事の後、私は強烈に知りたくなった。
知らなければいけないと思った。

そもそも、放射能ってどういうもの?
原発がなくなったら電力って足りるの?
放射能の外被曝、内被曝ってなに?
被曝したらどうなるの?
何を食べたらいいの?
いつまで続くの?


???だらけの疑問を一つ一つ解消している日々。
最近使い方がわかってきたtwitterがとっても役に立っている(笑)


5分でわかる原発がいらない理由 
http://www.chikyumura.org/earthquake/2011/05/5.html?tw



小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)原発学習会 http://www.ustream.tv/recorded/14058706

↑の動画の後半部分に、大人と幼児・子供の放射能に対する感受性の差をグラフで
わかりやすく説明してくれている。

早い話、放射線感受性の低い50歳を過ぎたら細胞分裂なんてほとんどしないから発がん率というのは低いが、細胞分裂を活発に行っている乳幼児・子供の発がん率はべらぼうに高い。
(実際、原発周辺地域では鼻血を出したり、頭痛がしたり・・・っていう症状を訴えている子供達が増えているという。)

小出氏は、この学習会の中で、むしろ50過ぎた大人は農家をつぶさないためにも野菜を積極的に食べる方がいい、と言っている。
とにかく、何より避けたいのは子供たちの摂取ということだ。

今朝、朝のニュース番組でキャベツ農家の男性が自ら命を絶ったという悲しい結末が報道されていた。
とことん土にこだわり、無農薬でキャベツを作り続けていた方。
「もう、福島の農家はおわりだ。」震災後、がっくりうなだれ未来に絶望していたという。
その方の携帯電話の待ち受け画面はキャベツだった。
キャベツにどれだけの情熱・愛を注いでいたのかがわかる一幕だった。


正確な情報が私達には届いていない。

政府の指示通りに出荷を規制された作物は、危険な食べ物だと私達は捉えてしまう。

事実、危険なのだろうが、それがどのように危険か、食べたらどうなるのか、誰が食べたらいけないのか、食べてしまったらどうしたらいいのか・・・・

そういう細やかな事実を、もっと国民に伝えてほしい。


少しでも多くの子供達が、放射能の汚染から救われることを祈ってやまない。


| Books | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
うまれる
この本は数ヶ月前にマリから送られてきた。

読み終わった時にはタオルハンカチがぐしょぐしょになっていた。

そんな本とは知らず喫茶店で熟読してしまったから、お店の人はさぞ驚いたことでしょう・・・。
私も、あんなに泣くつもりじゃなかったんです・・・ごめんなしゃい。

どんな本かっていうと

完全ドキュメンタリーの命の軌跡。

この本の著者が何組かの夫婦を取材している。
出産・流産・死産・不妊治療・・・・・そんな命にまつわる出来事を通して垣間見える夫婦の形・親への反発・過去のトラウマ・未来への願いや希望・・・・あらゆる感情がひとつの命の誕生をきっかけに放出される。

命が誕生するということは、奇跡であり軌跡だ。



この本の映画化は関東ではもう先月から始まっていて、いつ福岡に上陸するんだろうと待ち望んでいたら、18日からKBCシネマで上映されることをついさっき知った。

出産前にぜひとも見たかったからぎりぎりセーフで間に合いそうだ。



ひとつの命が胎内に宿ったその日から、ひとつの命の記録が始まる。

その命がこの世界に出てくることはなかっとしても、宿ったという記録はしっかり残される。


この映画の柱は、なんといっても胎内記憶だ。
あかちゃんはなんでも知っている、というやつだ。

たとえば
死産になることも、
シングルマザーの子供になることも、
体の弱い赤ちゃんとして生まれることも、
複雑な家庭環境のもとに生まれることも、

ひとつの命はすべてを受け入れて母の胎内に宿る。


「だから、ママのお腹を選んだんだよ」



それがほんとだとかうそだとか、そんなことどーだっていい。



こんなママとパパを選んできてくれたんだね。


本当に本当にありがとう・・・・・





Youtube 「うまれる」ドキュメンタリー

http://www.youtube.com/watch?v=BYcaODV8Hqw&NR=1


http://www.umareru.jp/

| Books | 18:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
君自身に還れ―知と信を巡る対話
評価:
大峯 顯,池田 晶子
本願寺出版社
¥ 1,470
(2007-03)
久々にこの本を開いた。
〔池田晶子〕の本を読むときは、決まって彼女が接している次元と会話したいとき。
彼女の言葉は時にとても痛い。
が、暖かい。

〔人間〕そのものを愛しているのが伝わる。

彼女がよく使う〔垂直的精神〕という言葉が私はとても好きだ。

生活と生存のための社会的感性は水平に広がるものだが、詩的感性とはそこに垂直にたちあがるものだ。

大嶺氏はこの言葉の解釈として

人間に対して贈られている次元。
人間が人間の力では支配できない次元。
時間空間を越えた自己の感受性の有無が根源となるもの。


詩的感性というのは、もちろん詩を書くことではなく、言葉の深さの次元をさらに深く、さらに高く、垂直にたちあがるものだということ。

ましてや、哲学なんぞを扱おうと思ったら、水平に広がっているばかりでは凡そ行き止まりは近い。

つい最近のことだが、別件の紐をといている最中に、たまたま橋爪大三郎氏の〔心はあるのか〕を再読した。
そのなかに、言語学者のウィトゲンシュタインの言葉が引用されていて、それが妙に坪に入り私は笑い転げてしまった。

「自分は世界の何者も信用していない。」という言葉が発せられた時点ですでに言葉という存在は信頼している。

うろ覚えだがそんなよーな言葉だった。

この学者さんが私のように浅い感性で受け止めている次元ですでにこの言葉を発していないのはわかる。
ただ、それであっても、現時点の私にもえらく痛い所をつかれた。

インド、メキシコ、ペルーなんやかんや、いろいろ行ったが、結局人間は〔言葉ありき〕だという事を強く感じている。
それは、他国の人とは言葉が通じないと意思疎通できないということではなくて、この地球上にいる人間とよばれる人種、どんな少数民族であろうと、自分達の言語を持ち、その言語の上に各々の思考を成り立たせている時点で、〔言葉に絶対的信頼性〕をもっているのだということだ。

言葉が通じなくても、なんとなく気持ちが通じる、この醍醐味を私はとても気に入っていたのだけれど、結局それも、お互いが暗黙の了解で〔言葉が訳されればおそらく類似した言葉を持っている〕相手に対して信頼を置いているからこそ成り立っている。

民族と民族との衝突やいさかいなんていうのはお互いの価値観が言葉に置き換えられない、お互いの言語圏で作り上げられない相違から生まれる、根源の言葉の衝突であって、これは民族同士じゃなくても、友人、家族、兄弟でも十分に日常起こっている衝突でもある。

こういう時こそ、なにが必要かってまさに〔垂直的精神〕なんじゃないかと思う。

水平に考えていたって、おそらく答えはいつまでたってもやってこない。
答えがみつからない、という答えすらみつからない。

正直なとこ、私はこの垂直的精神を常に持ち合わせるところの苦悩をえらく感じていた。
それはもちろん、私のそれがまだまだ不完全だからこそなのだ。

「君の言うことは理解できない」という意思表示をうけると、「んじゃ、もういいや。」というのが私の口癖だ。
そういうと、決まって相手は怒り出したり、「待った。」をかける。
そして、案の定そういう時に生産性のある答えは生まれなかったりする。
体力だけ消耗する。こういう時の疲れは一番こたえる。
「確実に交差しないことが明らかに明確である」ことだけは少なくとも確かなことだと知ってしまった場合、それ以上どうしたらいいってのか?
そこに怒りはもちろんのこと、悲しさもない、失望もない。
ただ「理解し合えないこともあるってことだ。」ってことがわかってるだけで、だからって相手を非難しているわけでも否定しているわけでもさらさらない。

だってもし私とDNAがまったく同じクローン人間が生まれたって、確実にお互いの意識の宇宙圏は微妙に異なるはずだ。
人間が言葉っていうものを持っていて、この言葉が生み出す世界観によって各々の次元を作り上げている限り。

どうして、人は必ず相手を理解できるものだと思い込んでいるのだろう。
そして、理解できないと、相手を非難するのだろう、
なんとまあ、傲慢な行為か。

・・・とくると、私はいつも「おい!お前もやってたやん!」となる(笑)

そう、顕著なところで言うと、近頃再三登場しているraiha姉に対してはもろにこの手を私は使いまくっていたのだ(笑)

そういう意味においても、確実にその過去の一点においてしっかりと楔が打たれている(笑)


「宇宙ってどうなってんのよ?」
「なんで私は私なのよ?」

「そんな変な疑問を持つな。もっと生産性のある疑問を持て。」

父と私の押し問答は相変わらずだ。

父からそう言われて続けても、結局私は今でもそんな湧き出す疑問を持つと寝られないくらいに興奮する人間のままだ。


人が人と共鳴しあうのは奇跡だ。


だからこそ共鳴しあうあの喜びを心から愛おしく思う。







| Books | 19:26 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
認知症とは何か (岩波新書)

認知症っていういう病がどんなもので、どんな種類があって、どういう経過ですすんでいくものなのか、介護側はどういうケアを心がけたらいいのか、そういう諸々の疑問をとても簡潔に説明してくれた本。

この本を本屋で手にしたのが去年の初めで、そこから紆余曲折あり、読む気にあまりなれず本棚に置いたままだった。
読み始めたのが去年の暮れあたり。
読んでみて、改めて母の病状が進行しているのがわかった。
悲しいというよりむしろほっとした。
集団意識的なものかもしれないけど、こうやってちゃんと母の病状にそっくりな出来事が文字になっていることに、母だけではないんだと改めて感じたから。

老人ホーム、ディケアセンターの数は年々増えているけれど、実際認知症をしっかりと認識されている方はまだまだ少ないという事実や、それぞれの認知症の症状にあわせてケアをしていく必要性をこの本で知った。

近頃の母はかなり頑張ってくれているような気がする。
昔は女友達のように交わしていた人生の事、恋愛の事、仕事のこと、ほとんど話すことのない今でも一緒に暮らしているとなんとなく母の感情が伝わってくる。
それはたぶん私のため。

時折母はとてもしっかりした事を言う。
それもほとんど同じようなこと。
「あんたは好きなことをしてほしい。あんたの人生なんだから。お母さんは大丈夫だから。」
この言葉を口にするときはぽやんとしたいつもの母ではなく、昔のキリリとした表情に一瞬戻る。
どんな時私はドキリとする。
「この人本当は全く呆けてなんかいないんじゃないか。」
そう思ったりする。

母は脳梗塞から発症した血管性認知症。
アルツハイマー性認知症とは症状も進行もまるで違うらしい。

血管性認知症は上り坂のように進行するというよりも、毛細血管に血が詰まった時一気に階段上に悪化する性質を持つから沈静期が長い。
全体的に呆けるアルツハイマー性と違って、詰まっていない脳の部分はしっかりしているので驚くほど正常な時があるのはそのせいだ。
近頃の母は多少の変化は伴うものの比較的安定しているのは大きな毛細血管に詰まりが少ないから。

毎日TVを見てケタケタ笑っている。
母を笑わせるのが私のひとつの仕事にもなっているので、小さい頃からお得意の変顔を1日1度は披露しては母の反応を伺ったりして、母の笑顔が何よりうれしい。

父と母の状態は相変わらずだが、少なくとも2年前よりは母の病気に対しての認識が深くなってきた父だから、母に対しての愚痴を私にこぼすことはなくなった。
よく言えば「納得」、悪く言えば「諦め」が父の心の中にも芽生えつつあるような気がする。

父の夢は定年退職後に母と日本一週することだった。
日本の地理に恐ろしく詳しい父の夢。
帰ってきた当初、この夢が叶わなくなってしまったと愚痴をこぼす父に反感こそすれ共感など露も感じなかったのだが、近頃私は一周とはいわないまでも行ける限り叶えてほしいと思うようになった。
中年男の一人旅を欲するままに思い存分楽しんでほしい、そう思っている。
長年サラリーマン生活やってきて母と私を養ってくれたんだから、それ位のご褒美があったっていいはずだ。

父のその旅行が終わったら、私がこの家から出て行く時期なんだろうなと漠然と感じている。

本当は母も一緒に連れて行ってほしいけれど、なんせ母は今のところまるで行きたがる様子がない。
2ヶ月に1度行っている原鶴温泉へも半ば強引に連れて行ってるくらいだ。
行ったら行ったでそこそこ楽しそうな様子も見せる。
でも帰ってきたら「もう行きたくない」という。

この本によると、認知症の一番の問題は症状そのものよりも患者本人の〔生きる気力が低下する〕ことにあるらしい。
〔生きたい〕とか〔死にたくない〕とかっていう普通の人間に備わっている生命力そのものが枯渇してくるので、「これを食べたい」とか「これがしたい」っていうすべてにおける気力も同時に低下する。
これは血管梗塞の症状が進む進まないに関わらず、メンタルの問題になるので常に注意して観察することが必要になる。

母の場合、当初からモロにこの気力の低下が著しかったので、私もあらゆるアプローチを試しながら母の気力向上を促そうとしてきたけれど、これがなかなか難しい。
とくに血管性の場合は、全体的に脳が萎縮するアルツハイマー性と違い、脳の中で活動している部分としていない部分がはっきり分かれているので、同じ症状でも〔自我〕が強く残っていく。
老人ホームでも一匹狼タイプはこの血管性。
集団でお手手仲良くつないでつるむのはアルツハイマー性だという。
そういうタイプは下手に刺激すると腹かいて、かえって逆効果になる。
自発的に何かをしたいとか、何かを食べたいとか感じてくれるようにけしかけなきゃいけないと書かれてある。

でも時々私は思う。
それすら私たち健常者のエゴじゃないかって。
母を見てると、認知症になったのは神様のプレゼントじゃないかと心底思うときがあるし、この人は選んでこうなったんじゃないかと思う。

そう感じる一方で、もう少し発奮してなにかをしようという気持ちになってくれたらいいのにとも思う。

毎度毎度この堂々巡りを繰り返している。

せめぎあっているのはこっちのほう(苦笑)
大体母はなにも悪くないのだから、それを乗り越えるのは私と父でしかない。

この数年、母が認知症になったおかげで私と父は成長せざる負えなくなった。
まさしくアダルトチルドレンコンビの大冒険じゃなかろうか。
母の新たな一面に触れ、自分達の新たな一面に触れ、我が家の構造は革命的な変換期を迎えている。
大げさか?
いやいや、これは立派な「てるよの構造改革」だと娘は断言したい。

みんな生きてりゃいつかは呆ける。
世話する人間だっていつかは世話される。
遅いか早いかだけのことだと、誰かが言ってた。

2年前のブログに私はこう書いた。
「思春期に通りすぎるべき大事な反抗期を逃げた私が今やっと反抗期を迎えた。」と。

それなら、今日はこう書こうと思う。
「次は私が大人になる番。甘えるのはもうおしまい。」



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小林秀雄
ここ数年、最も読んだのは小林秀雄氏の書物だろうと思う。
初めて読んだときの感動は今も変わらず同じ場所であらゆる方向から与え続けてくれる。
彼が評した先達の数は膨大で、私はほんの一握りしか接していないが、どの評論を読んでいてもただ恐れ入るのが彼の〔無私〕の位置から事象を眺める姿勢だ。
何を論じていても、常に彼はその位置から事象を論じるという試みからはみ出していない。

〔無私〕から生まれる湧き上がる感動とは、と新たな世界の楽しみ方を学ぶ。

〔無私の境地〕というのは、何も特別なことでも悟った人間しかなしえない業でもなく、ある人間の精神の中に飛び込みきったときにしか現れない境地なだけだと彼の言葉は常に答えている。それはあらゆる事象において同じスタンスなのだ。決してぶれない。
自分に対しても、周りのあらゆる対象に対しても。
常に〔覚悟〕を持ち合わせている。

大切な事は、真理に頼って現実を限定することではない。
あるがままの現実体験の純化である。
見るところを、考えることによって抽象化するのではない。
見ることが考えることを同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである。

(小林秀雄)

中途半端に飛び込むなら、入らないほうがましだ、とも彼は断言する。
それはニーチェの「愛すことができないならば、そこを通り過ぎるべきなのだ」
と、全く同様の手触りを感じる。

とにかく時に痛いほど真実を貫いてくるから、「あっちゃ〜〜。」と思うが、本当だからしょうがない。

つい先日、ふとかすった疑問があり、それをノートにメモした。

それは新聞の欄に載っていた読者の書評に「読み終わった後に自分ではなくなったような気がした。」という一文をみたからだ。
果たして、そんな本など存在するのだろうか?
それが私の純粋な疑問だ。
残念ながら私は自分が自分でなくなったような気がする本に出会ったことがない。
ただ単に読んでいる本の数が少ないっていうのと、自分の変化を自覚できていないという前提がある。
今までのところ、どんなに感銘を受けようと、読後の私は結局いつもの私だ。

私は本を通して自分が同感、理解、反感、なんにせよ、ある種の感覚の追体験をし、しまいには結果自分を眺めているに過ぎないな、っていう作業をやっている。
「お〜〜っ!」と本を読みすすめながら膝を打つときはいつでも、「読んだから、理解した」という順番ではなく、私の頭の中では確実に、「理解していたことを読んだことにより知った。」という順番なのだ。
新しい知識、新しい言葉、事柄にでくわすことは多々ある。
先日も図書館からホーキングの本を借りてきたら、宇宙定数だの、ホログラフィ原理だの???オニューな言葉がわんさかでてきた。
そんな時に膝を打ったりはしない。
脳の中にわずかに見つける〔既知の知識〕を総動員に組み合わせ、新しい言葉を既に知っている言葉に置き換える作業をして、「あっ!!!なるほどねぇ!」となった時、やっと膝を打ちたくなる。
近頃なんかは、あまりにも理解できない文章に多々出会いすぎるから、「たいがいアホやん・・」と笑っちゃって本を読むことそれ自体が、「自分のアホさ」を再認識するための手段になりつつある。

読んだ後に稀に〔恐ろしさ〕に出くわすときもある。
感動とは別の種類であることは確かだが、なんだか解せない妙な後味の悪さ、そういった類の感覚に出くわす時、〔暖める〕という作業を取り入れることにしている。
これは小林氏が提唱しているものであるかどうかは分からないし、勝手な私の個人判断だが、すぐに切り捨てるのはもったいないと思うからだ。
事実、昔後味の悪かったものが、今ではなんだか心地よくさえ感じたりもするものだ。
〔幽霊〕とか〔お化け〕とか、小さい頃はとにかく怖かった。が、しかしこうやって時間がたって、「いても全くおかしくないわ。」と合点がいくと全く怖くなくなるものだ。
ただ、そういうものに出くわしたときは実が熟すまでただ待ったほうがいいのだろう。
そういうものの中に新たな自分の一面があるんじゃなかろうかと期待する姿ってなんだか滑稽だから、「わかんなくてもいいんじゃない」スタンスは常に持ち合わせていたい。

小林秀雄から学んだことは、書物、哲学、美術、人間、あらゆる外界の事象との付き合い方だ。

おっしゃっている内容はやはり氏が若い頃とお年を召した頃では結構違う。
若い頃は燃え盛る熱いエネルギーにあふれているし、晩年の作には穏やかで静かであるけれども鋭いまなざしが言葉にみつかる。
ただ、いつのときも、合い向き合う人、事象、に対してとにかく真摯で命がけだ。
瞬間瞬間、言葉の限界を思い知りながら言葉の可能性に賭けている姿、〔無私〕に徹して世を斬る姿、それがただただかっこいい!!とミーハーちっくに思ってしまう。
時がたてばたつほど、小林氏の「無私」の度合いが増してくるので、時間の経過とともに見方が変わって当然のことなのだろう。
(人は、ある人の考えが変わると、そこを指摘し中傷の種にするが、人間変化するもの、流れる血潮の向きが変わっただけのこと、その性質はなんにもかわっていないことが多い。とかくこういった意匠の言葉には常に逆説が孕んでいるもので、その末端はいつも同じ場所だったりする。)

人が人に惚れるときと同じで、言葉なんて結局どーでもよくなったりしてしまうもんなのかしら?
それより何より、その人に脈々と流れほとばしるエネルギーに惚れてしまう。
あ〜ほとほと単純な私。

内田樹氏にも、池田晶子氏にも、同じ惚れ方をしてる。
自分を主体にした断定ではなく、自分からぽ〜んと離れてる場所で断定できる人たち。
ってか、自分から離れたからこそ断定している人たち。
離れれば、離れるほど、彼らの断定はいっそうに深い。

そういう人がたぶん好きなのだ。

ただ言葉って強力な力をもっていると同時にとても無力だとも思っているから、実生活では生身のその人となりに接さないと気がすまない性質でもある。
だからって自分の目をどれだけ信じているか、どれだけ信憑性があるのか、それもあやふやだけれど、やっぱりそこはなんだか譲れない。
こーいうところは父譲りの体育会系の血がむくむくと顔を出す。

小林秀雄氏も池田晶子さんももうこの世にはいらっしゃらないからそれは残念なのだけど、言葉で勝負している方達だから、あちらは「会って確かめてほしい」なんて露も思ってないはずだから、それはそれでいいのだろう。

面白いのは、そういった〔無私〕の領域で言葉を発している方達にはほとんど類似しているテキストがあること。

ついさっき読み終えた本は「日本の神道」について明治大学の教授が書いた本だったが、
あ〜なるほど、ここに日本の源はあったのかとなんだか心躍る気持ちの今だ。
日本書紀に天照大神が現れる前の原型に(いわゆる日本統一という政治的戦略が忍び寄る前)現代の日本人にもしかと通じる事の見方が存在する。
〔産霊〕(むすひ)という生命力を現すその一語に凝縮されている。
〔生命あるものを生み出すこと〕。
それが善悪さしおいて一番なのだと言い切れていた日本の姿がそこにはある。
それのためなら、山だって海だって空だってなんだって拝んじゃうよ!という笑えるくらいに潔い姿がある。
そこから仏教が伝わり、大和朝廷が律令をつくり・・・と時代時代の流れに日本の姿も変容していくのだけれど、同じ風土のもとで暮らす同じ民族の祖先である私達の根底にも確かに流れている抗えない性質がきっとあるのだと誇らしくも感じている。

神道の歴史を振り返るのに欠かしてはならないのが、江戸時代「古事記」の研究をした本居宣長だが、彼はというとそれこそ小林秀雄氏が晩年彼について長作を残している。

宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。
彼は「聖学」をもとめて、できる限りの「雑学」をしてきたのである。
彼はどんな道も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とすることはできなかった。従って彼の「雑学」を貫道するものは「之(コレ)ヲ好ミ信ジ楽シム」という自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかったことになる

(小林秀雄「本居宣長」)



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身体知-身体が教えてくれること (木星叢書)
評価:
内田 樹,三砂 ちづる
バジリコ
¥ 1,365
(2006-04-06)
内田樹という方。
この人も会ってみたい人。
「寝ながら学べる構造主義」、「大人は判ってくれない」、「〔おじさん的〕思考」とかほかにも結構たくさんの本をかいている。
私は表題の本と上記3冊しかまだ読んでいない。
神戸女学院大学文学部の教授さん。
この人の授業うけてみたい!と本気で思ってる。

専門はフランス現代思想、映画論、武道論。
なんともちぐはぐなこの有様こそが、この人の魅力だと私は感じてる。
AとBとをリンクする能力に長けている。
長けているが故の苦悩すら、この人はそれを笑いながら受ける。
あらゆる物事をうまく「受ける」方法をよく知っている。

リンクすることが癖のひとつであっても、なかなかAとBとが結びつかないとき、私はかなり苦悩してしまう。
そこでどうしても足止めをくらってしまう。
先に進めない。
進もうという気にならない。
半歩右に進んでは、そこで引き返し、また左に進んでは、そこで引き返し、あ〜斜め左だったのね〜とまた進んでは、アレレ?と止まる。
厄介このうえない。
それでも、リンクした後のあのなんともいえない爽快感を体はしっかり覚えているから、やめられない。

リンクの作業っていうのは、体でするもんだ、と私は思っている。
だってど〜もこ〜もその瞬間の感動っていうのを言葉で表現できないもどかしさってのがいつもあるから。
単なる私の語彙不足かもしれない。
一言でいっちゃうと、今TVでよく聞く、「きた〜〜〜〜っ」っていう響き(笑)
あれだ。やっぱ語彙不足か・・・。

リンクした瞬間、内側から瞬間にして何かが流れ出すのがわかる。
流れ出す直前も、なんとなくわかる。
未来の時間軸に自分が乗っかった感触。
そのなんとなくの感触っていうか、手触りっていうか、それが頼り。
流れ出すその瞬間まで、実に孤独なひとり遊びの時間をただ望むだけすごす。

流れ出さない状態で動いてみたりもする。
そういうとき、見事なまでに外界との接触でなんの化学反応も起こらない。

その何にも化学反応が起こらない沈静した時間ってのも、なかなかいいもんだ、と私は思う。

私は子供を生んだことがないから断言できないけれど、女性が出産し母乳を与えるあの一定期間っていうのは、ある意味、意識的に外界との接触モードを意識的にオフにしているんじゃないかって思う。
女性の知恵っていうか。
体的にも骨盤がぼぁ〜っと広がるあの時期は外界モードになりにくい。

あえていう事でもないけど、私は男じゃない。なのでこれまた断言はできないけれど、骨盤の開閉が少ない男性っていうのは、絶えず外界モードをオンにできるんだと思う。

野口整体では端的にこういう。

「男は閉じる力を高め、女は緩める力を高めろ。男は閉じる力を高めることで緩める快感を知り、女は緩める力を高めることで閉じる快感をしる、そのような身体になっている。」


人はこうやって、自分が同じ経験をしたことがなくても、なにかしらの過去の経験と想像力と流動性のある意識を身体の回路を通すことで、他者を観ることができる。
自分を観られることができる。

それが、他者とのコミュニケーションの醍醐味だ。



この本は分野の違う内田氏と三砂さんが〔武道〕〔出産〕〔教育〕〔家族〕〔医療〕と様々なテーマを〔身体〕という軸だけあわせつつ対談している。
自分とはまったく異なる着ぐるみをまとってる他者の〔身体〕と、〔知〕を駆使して交わることの楽しさが満載だ。

それぞれのライブラリーに登録されていない身体言語が行き交う中で、それでもなめらかに対話できている、その面白さを内田氏はあとがきでこう述べている。

「同じような身体を有しているという事実それ自体はあまりコミュニケーションに資することがない。〔中略〕なぜなら身体にかかわる出来事についてのコミュニケーションは身体をどのように言語的に分節するかという徹底的に知性的な仕事だからである。
 自分の身体の内部で生じている無数のざわめきや、「ノイズ」を意味のなる「シグナル」に変換するという作業に価値を認める人間たちの間でのみ成立する。
 自分はどのような姿勢をとりたいのか、どのような声質で語り掛けられたいのか、どのような触感をもつものに触れられたいのか、、、、そういう身体からの様々な微細なシグナルを感知し、識別し、それを言語化することにリソースを投資することを惜しまない人間たちだけが身体でおきている出来事について語り合うことができる。」

「〔あなたの身体の内側でなにが起きているか、あなたが身体を通じて何を感じているのか、私にはわからない。〕という無知の自覚がむしろ身体(精神)について語るときの前提におくべきだろうと私は思っている。」


前の日記のあの女性のダンスが頭に浮かんだ。

外界はいかようにも変化し、いかようにも察知できる。

その前提を知りえた上での、他者とのコミュニケーションほど愉快なものはない。




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