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食卓
前述したように、去年末くらいからじんわりじんわり肩の力が抜けてきました。
それと同時に我が家の空気も変わりました。

父の他界後、「私がこの家族を守らなねば!!!」という背中にずっしりくる重みは、悲しみとか寂しさとかを口に出す余裕すらかき消して、「我が子がただただ健康に健やかに過ごせますように・・・・」
それだけが私の祈りでした。
自分のことなんてどーでもいい。
とにかく、一日一日無事に過ぎたらいい。

夜娘の寝顔を見て、一息つくときに、
「あぁ、今日も無事に過ごせた・・・」
これが口癖になっていました。

安全に健康に当たり前に過ごしてきたこれまでの自分がどれほど恵まれた環境にいたのか
しみじみ感じ入る日々でした。
それは今も同じです。
父とも母とも散々にやり合ってきた私ですが、今では親には感謝しかありません。

親になって、娘にも私が与えられていた環境を全て与えていきたいところですが、
正直不可能な部分があります。
だからこそ唯一私ができること、、、
それが
食卓を彩ること
家の中を清潔に保つこと。
この二点はどんなにバタバタしていても手を抜きたくなかったところ。

それは母が私にしてくれていたこと。

母はそれはそれは料理上手で、毎日美味しいご飯を父と私の為に作ってくれました。
幼いころから当たり前に食べていた一つ一つのレシピに、母の愛がこめられていた事が有り難く、それらが今の私の土台になっていたことを娘を育てるようになってさらに強く感じるようになりました。

母の料理を作る姿は、とにかくかっこよかった!
板についてる、という言葉の意味を私は幼いうちに母の台所姿から学んだような気がします。
10歳くらいから家の台所を任され、その後家政科を卒業し、そのまま助教授にならないか、と誘いを受けたといいますから、母には相当な才能があったんだと思います。
当たり前ながらインスタント系の食材を使ったところを見たことがなく、
出汁はすべて手作りでしたし、魚も切り身ではほとんど買わず、鯛だろうがカツオだろうが
タコだろうが一匹買いして、家でさばくというのが彼女の基本でした。
母の台所姿は、「母」の背中というより、むしろ料理人、職人、の背中に近いものがありました。
抜け目なく段取りし、手早く、そして丁寧に、1〜2時間で5〜6品をチャチャチャと仕上げるその後姿にはどこか近寄りがたい雰囲気があったのを覚えています。
母にとって台所は決して家事の延長線にある場所ではなく、《仕事場》だったのだろうと思います。
そんな母でしたから、娘の私に丁寧に料理を教えるという事は数えるほどしかありませんでしたが、今こうやって台所に立つことに全くストレスなくやっていけてるのは
母の後姿をみてきたおかげだと思っています。

母の足元にも及びませんが、娘にもインスタントではなく天然の素材から生まれる味を《懐かしい味》として覚えていてほしいなぁと思いつつ、日々あれやこれや試しながら料理しています。
現在の母はあの頃の自分の雄姿を見事に忘却しているので彼女からレシピを教えてもらう事が出来ないのが実に残念、、、、。
ノートか何かに残してもらっておけばよかった・・・と悔やむばかりです。
けれど、舌はまだまだ衰えていない様なので、味見役としてサポートしてもらっています。

私自身は長い間マクロビベースのベジタリアンをやってきましたが、2歳の娘にはむしろなんでも食べてほしいと思っています。
すくなくとも今から成長期まではお魚もお肉も程良く。
なるべく無農薬のもの、新鮮なものを選び、地産地消を心がけ、陰陽の原理に沿って出来る限り調理していますが、「こうでなくてはならない!」とストイックになると料理の幅を狭めてしまうと思っています。
納豆、漬物、麹、、、等の発酵食品を毎日どこかで必ず食すことや、味噌、醤油、みりんなどの調味料は信頼のおける方々が丹精込めて作られているものを選んでいればそんなに大幅に横道にそれることはないかなぁと。
ベースは玄米ですが、まだ二歳の娘には消化しづらいので、七分米の日と玄米の日を半々程度、そこに娘の大好物のうどんが入るので(笑)、4:4:2位の割合でしょうか・・・。

娘はとにかく台所が大好きで、私が台所に立つと、「あ〜ちゃんもまぜまぜする!」と一緒にやりたがります。保育園でも台所から離れないらしいです。
私としてはこのまま順調に料理好きになってもらって、彼女に全てをお任せする日を夢見ているのですが、そーはうまくはいかないかな・・・・(笑)

食卓を囲むということをことさら大切にしていた父。
高校までは、夕ご飯の時間に10分でも遅れると叱られていました。
家族がそろって食卓を囲み他愛もない会話をすることが何より大切だと父はいつも言っていました。
他愛のない会話から喧嘩に発展することも少なからずありましたが・・・w、概ね毎日我が家の食卓は明るく会話が途切れることのない空間でした。
言葉のない静かな食卓なんて一度も経験したことがありません。
年頃になり反抗した時期もありましたが、この歳になると《家族》を思い出す時決まって食卓が真っ先に浮かびます。
父が「うまいなぁ」と言いながら嬉しそうにビールを飲みながらつまらないダジャレ(笑)を連発してはけらけら笑う顔を思い出す時、《食卓》=《笑い》の上田家を築いた父をとても誇らしく思い、そこに幸せが詰まっていた事を感じるのです。

娘が母になった時、私と同じように《食卓》=《笑い》が彼女の公式になってくれていたら
いいなぁと思いながら、今せっせと《食卓》作りに励み、くだらないダジャレを連発している私なのです・・(笑)。


| Family -家族の軌跡- | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
去年の心境
一年前の7月に書いてた書き途中のブログ。
おぉ〜やっぱりこのときの私は相当きつそうだ!
でも2007年の私の方がもっときつそうだぞw

二種類の異なる苦痛を味わった2007〜2008年と2011〜2012年。

過ぎてみて、これ読んでみて思ったのは、どっちにしても私って極限にきつい時に人に
「きついから助けて!」と訴えることがどーも下手くそらしいってこと。
他人にみじめに思われたくないっていうプライドが高さも理由だろうし、
助けを求めて他人を困らせたくないっていう気弱さも理由だろうし、
時間が解決してくれるさ〜っていう楽天的なのも理由だろうし、、、(笑)

しかも去年のきつさは、年がら年中きついというよりも、単発的にきつさが到来するから「助けて!」と言おうと思った時はもうきつくなかったりしていて、言う機会を逃していたりもしたな、、、、

これからはもっと素直に発信していこうと、これ読み返しながら思っていますw



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

傍から見ると、現在の私の状況っていうのはよほどきつそうに見えるんかな。

「大丈夫?」
という言葉をどれだけかけてもらったか。

確かに、この1年、体力的にも精神的にも限界MAXで「ちょっとタンマ!」と神様に一時停止ボタンを求めたこと数知れず。
自分のへたれ具合にはほとほと嫌気がさしてた。

・・・のだけれど、

「大丈夫?」
と聞かれると、
「大丈夫、でもないかもしれんけど、大丈夫じゃなく、もない。」
って答えが頭に浮かび、結局
「大丈夫」
と答えている私。

なんでかって
こーいう時、私はいつも比較している《苦痛》があるからなのだ。

それは、2007年。
何度かこれまでブログでも書いてきたのだけれど、この年は私にとって究極の1年だった。
心の内側にとことん入り込み、自ら光とは真逆の方向に推し進め、自分で自分の出口を塞ぎ、
魂の灯が小さく小さくなり、自分の存在意義が見えないどころか、その自分って存在そのものが希薄で、今にも消え入りそうなギリギリのところまで追い込んでしまったあの時期。


あの時期の精神的苦痛と今の精神的苦痛は、性質が全く異なっている。


今は、

「生きていくことが大変な苦痛」

2007年は

「生きる事そのものがきつい苦痛」


私の場合、どっちがきついかって、断然後者、2007年の時のきつさだ。


だって、今は、苦痛の前提に「生きる」という観念がイキイキと私の中で息づいているけれど、
あの時は「生きる」という観念そのものが私の中で小さく小さくなっていたから。

人間、「生きたい」「生きなきゃ」っていう本能が薄れてしまった時ほどきついときはないんだと思う。


条件だけ見たら、
2007年は、親父も生きていたし、体力を消耗する激務をしていたわけでもないし、実家に戻り物質的に何不自由なく暮らせていた。
今よりもずっと楽ちんな状況だった。
逆にいえば、そんな状態だったから、どっぷりと自分にはまり込んでしまったのかもしれないし、甘えから生じた苦悩だったのかもしれない。

そうだとしても、生きるってことそのものが希薄になっている心の状態というのは、とにかくきつい。

そんなときに、「貴方より大変な人は世の中にたくさんいるんだから元気出して。」
なんて言葉かけられても、全く心に響かないどころか、むしろ逆効果になった。
「他人のことなんて知ったことか!」と毒づきたくなった。

今の状況だと、「あゆより大変な人は世の中にたくさんいるんだから、元気出して!」
なんて言われると、「だよね〜〜!頑張んなきゃ!へこたれとー場合じゃなかね!」ってなるんだけど。


つい昨日友人と話していてある話題があがった。


彼女の友人が現在めっきり鬱状態に入ってしまいふさぎこんでいて心配だという話だった。

他人を受け付けられず、今はそっとしておいてほしいといわれているが、何かよからぬ方向にいってしまっては・・・とながらも、どう接したらいいのか・・・・と彼女自身も悩んでいた。

その時、私があの頃の話を例に話したら、彼女はとても驚いて
「あゆ、あの頃そんなにきつかったの?知らなかったよ・・・・」と言った。
それもそのはず。
ああいう状態の時って、言いたくないし、詮索されたくもない。
人と出来る限り接したくない状態。
下手な気遣いで何か言葉をかけてくれるなら、いっそ何も言ってほしくなかった。

あぁいう時は、とことん同意してくれるか、逆に全く気を使わずに接してくれるか、
どっちか、が、いい。

あの時期も、本には助けられた。
私の場合、自己啓発的な前向き論の本はこの時期読む気もしなかった。
それよりも、村上春樹とか、三島由紀夫とか、その人の世界にどっぷり入り込めるような
本の方が、逆に私の心を軽くしてくれた。
おそらく、鬱状態っていうのは、恐ろしくナルシストになってるんだわ。

不思議とこういう類の本、今はちっともときめかない・・・・w
「な〜に、ナルシストしてんの〜!!?」ってな具合。
先日もIQ84を読み終わって、言ってることはわかるけど、で、何?みたいなw

こっちは、特売日だからってMr.Maxに車走らせてトイレットペーパーにおむつに介護パッドに猫砂4ℓに猫餌2k、、、その他諸々の調達を娘抱っこしながらで日々腰が砕けそうなんで、そんな思索におぼれてる暇ありません!!ってな感じ。
これもこれでどーかと思っているし、あんなに心ときめいた方達を否定するようで
忍びなかったりもするんだけど、、、ね。
でも、思索って時間があるから出来るんだわ・・とあの時の自分をちょっと恨めしく思ったりもしたり。

とりあえず今は体力的なしんどさが半端ないのと、慣れない母の世話に苦戦中。
不思議と娘の育児にしんどさがないばかりか、育児に助けられてるかもしれない。
娘がいるからやっていけてる。
朝起きてご飯食べて、掃除洗濯して、買い物して、公園行って、夕飯の準備して、、
毎日ほぼ同じリズムで人間的な生活ができているのも娘のおかげだと思う。

このきつさもおそらく時の流れと共に慣れて当たり前になってくれる、、、はず(笑)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、去年の書き途中だったブログ。


うん!確かに!
《慣れ》っていうのは有り難い!
そして《時間》も。

ある父の知人の方が父の他界後連絡を下さったことがあり、

「あゆちゃん、三回忌まではとにかく大変よ。色々と整理することがあるしね。
でもね、三回忌が過ぎる頃には本当楽になっているはずだから。それまで頑張るのよ!」

とお声をかけて下さった。

来月、父の三回忌。

本当だ。
ドンピシャじゃないか!

過ぎたんだな・・・・。
過ぎるもんなんだな・・・・。

素直に助けを求めていなくても、沢山の人達の支えがあって乗り越えられた。
ケアマネさんやヘルパーさん、デイケアの方々、娘のお世話をしてくださった保育士さん達、
お隣さんの叔母様、遠く離れててもよく電話かけてきてくれた親戚の兄ちゃん、元旦那に元旦那のお母さん、そして友人達。

人々の温かさが心に沁み入る二年間でした。

この場を借りて言わせてください。

本当に本当にありがとうございました。

これからも父の遺言どおり「腐らず」に生きていきたいと思います♪



| Family -家族の軌跡- | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
母との対峙 2

父は私を愛していないと思い込んでいたのは勝手な私の思い込みだったのだということを知った時から、母へのどーしようもない怒りが生まれたような気がする。
いや、正確に言うと、もともとそれはあったのだ。

敏感で繊細でプライドの高い母の心をなるべく波風立たせないように・・・という無言の約束事が私と父の間には確かにあった。
父と私が仲睦まじ過ぎることも「私をのけものにしないで」と嫌がっていた母だったから、いつのまにか
私と父はある程度いがみ合ってる位がちょうどいい塩梅になっていた。
何事も完璧でなければならない母の性質は私や父を窮屈にさせたばかりでなく母自身をも苦しめた。
布のしわをのばして出来る最後のよれで毎回つまづき、そのたびに深酒をして暴言・暴力を繰り返した。いったんそうなると翌朝の学校に間に合うか間に合わないかまでそれは続き、身体も心もボロボロになった。腫らした顔で学校へ行くことは苦痛以外のなにものでもなかった。
一番の被害に合っていた父だったが一度も仕事を休むことはなかったし、私に決まってこう言った。
「あゆこ、ごめんな。今日はきついと思うけど頑張れよな。休みたいかもしれないけどな、ここで休んだら癖になるからさ。お父さんも頑張るから。」そう言ってキチっと背広を着て玄関を出ていく父の背中を見送る時、もう帰ってこないんじゃないかと毎回とても心細くなった。
学校から帰宅する頃には母は平常に戻り、何事もなかったかのように台所で料理をしている母を見てほっとするのと同時にかすかな苛立ちをいつも覚えた。
母は父にも私にも一度も「ごめんね」と言ったことはなかった。
母にとって謝ることはプライドを傷つける屈辱の一つであり、それを保守するためには自分の行為を
常に誰か人のせいにするしかなかった。そして、その矢は言わずもがな常に父に射られた。
幼い私は、母の大暴れの原因が父にあるのだと思い込んでいた。・・・というより思い込もうとしていた。
母=被害者 父=加害者 の図式を作ってしまった方が面倒くさくなかったから。

「お前はどうせおれを悪者扱いするんだろう。いいよ。お前もいつかわかるさ。」
父が何気に発した言葉を今になって反芻する。
確かに、いつかのそのいつかが、本当にやってきた。
この歳になって、まさか自分が母の矢の的になるとはおもってもいなかったが、矢の的になって初めて母がどれほど彼女本来が持つ葛藤から逃げて身に起こる様々な出来事を人のせいにして生きてきたのかを思い知った。
認知症になりあの頃と比べると信じられないほど穏やかになった母だが、素直に人に謝れないプライドの高さや自分を守るために反射的にうそをついたり人のせいにしたりする癖はしっかりと残っていて
、私はそのたびに悪者になる。

今年に入ってようやくそういう母の癖も「ハイハイ」とスルー出来るようになった。
母の態度を改めさせようと怒りという武器で応戦していた二年間も無駄ではなかったのかもしれないが、身心擦り切れる度合いと成果が全くもって比例してなかった(笑)


これまで私はヨガで何を学んでいたんだい?
[怒り]で戦ってもなーんにも生まれないんじゃなかったかい?
そう!
受け入れるのだ!!!

・・・・と頭ではわかってるんだが・・・・・
現実、なかなかそーはいかない日々が続いた・・・。


本来その怒りさえ母へ向けるものではない。
それらの幻想を信じ切って自分の目で父を感じようとしてこなかった自分への怒りであり、傍若無人で半人前の自分への怒り。
そして、何よりも、そういう母の側面をみるにつけ、私の中にも確かに存在する母のDNAへの拒絶が怒りを産んでいた。

頭でそうわかっていても、母を前にするとその怒りはとたんに母へ向かう日々が続いた。
それが認知症の母へのいら立ちからなのか、蓄積された記憶からの怒りからなのか、
自分でも区別がつかなかった。

私はこんなにも母から刷り込まれた言葉一つ一つを記憶し、その記憶にこんなにも振り回されているっていうのに、貴方はどうしてそこまで忘れられるのか・・・
都合の悪い記憶ばかりをなくしていく母そのものに釈然としない苛立ちばかりがつのった。

母の中での父の思い出は他界後全てすり替えられた。
あんなに文句ばかり言っていたのに、父が逝った途端、母の中で父は「素晴らしい人」
に変わっていた。
父が何をしても感謝の言葉ひとつもなく、文句ばかり言い、父から「お前は文句しかでてこないんだなぁ・・・」と落胆させていたあの母は、もう母の中で消滅していた。
私に刷り込ませていたあの呪文も、あの激しい喧嘩も、母は見事に全て忘却した。
そこに私の歯痒さがあった。

確かにもし母が認知症になっていなかったら、父を失った喪失感で身心を病み今のような人間としての営みを送れてはいなかっただろうし、私には到底手に負えなかっただろう。

私の歯痒さとは裏腹に、天国の父は「それでいいんだ。」とあの独特の手振りをつけて私をなだめているように感じたことが何度かあった。

父が逝く2日前、看護師さんからそろそろ心の準備をするように言われた後、私は母にお願いしたことがあった。
「もう、お父さんは長くないから、どうかお父さんに直接「ありがとう」って一言だけでいいから言ってほしい」と。
母はその願いを見事に無視し、死にゆく父に近寄ることさえほとんどしなかった。
それなのに父が息を引きとったことを一番に気がついたのは母だった。
「あゆちゃん、お父さんが息していないわ。」と私を呼んだのは母だった。
夜中トイレに行きたくなり、ふと気になり父が寝ていた隣室に立ち寄ったのだ。
最後まで結局母は父に「ありがとう」と言えずにおわった。
けれど、夫婦って言うのは理屈では割り切れない何かをお互いに共有しているものなのかもしれないとその時感じた。
2人の歴史。
その短くない時間の中に2人にしか共有できない何かを2人だけで築いてきたのだろう。
だからこそ、父は最後の最期、母に自分の死を真っ先に伝えたかったのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

娘の成長とともに歩んできたこの二年。
私も母も娘にどれほど救われてきたか。
一秒たりとも離れられない時期を過ぎ、彼女の意志が行動に反映されるようになった。
育児は常に変化していくもので、こっちが娘に追い付いていかなくてはいけない。
こっちが作ったルールや枠組みが翌日にはもう通用していないことなんてざら。
この世界あらゆる職種があるけれども、育児ほど変化に富んだ面白い仕事はないように思う。

彼女を通してみる世界は私にいつもいつも驚きと感動と笑いをくれる。
彼女を通して、一人の人間がどんな経緯で物事を理解し、価値観を作り上げ、世界観を立ち上げていくかを、私は今観させてもらっている。

もちろん、も〜〜〜〜!っという苛立ちはある。うん、かなり頻繁に(笑)
けれど、それは苛立ちに過ぎない。
決して「怒り」ではないのだ。

それをふとした瞬間に感じた時、

結局、私が持つ母への怒りというのは、記憶に縛られているものに過ぎないのだ、とガッテンした。

自分の歴史の中での父の定義が、ほとんど母によって意味づけされていたことに対して
取り返しのつかない過ちとして自分を責める代わりに母にそれを向けたかったのだ。
その裏には、自分のこの後悔の念を母に知らしめたいという私のエゴが隠されていた。

母が父に「ありがとう」を言えなかろうが、今現在父との思い出を全て都合のいいようにすり替えていようが、本来それは私の問題ではない。そもそも父はそれでいいと思っている。(はず!)
それに私がいくらそれを諭したところで、母が変わるわけではない。
母が気づくしかない。
どこかのポイントでもしかしたら気がつくのかもしれないし、一生気がつかないのかもしれない。
気がつかなくてもしょうがない。

そこに怒りを持つこと自体、なんて不毛なことなのでしょう・・・・と、私は一年半という長い期間を経てようやく気がついた。

それに気がついた時、やっと過去の記憶に縛られた怒りから解放された。

昔の母と今の母を、区別できるようになったのもそのころからだ。

認知症の母を、今の姿として無駄な感情抜きでただ見れるようになった。

そしたら、認知症の介護という現実の事柄において、私が少しも怒りを感じていないという事実を
知った。
これには、私自身驚きだった。

施設でおじいちゃんおばあちゃんを淡々と介護していた様に母に介護している自分を見つけた時、
改めてそれまで過去の記憶に縛られていた自分を再確認した。

そして同時に、
「近親者の介護」がいかに難しいのかも改めて認識した。



「親の介護」

言葉で聞くと簡単に聞こえるかもしれない。

「それまで世話になった親の面倒をみるのは当たり前」

そう言い切れる人も沢山いるだろう。

経済状態などの関係でやむなく自宅介護を選んでいる人もいるだろう。

私のように、なんかよくわからないけれど流れ着いた先が自宅介護だったと言う人もいるはずだ。

「介護は当たり前」と、言い切れる人が私はとても羨ましい。
ここに至るまで、私は正直きつかったから。
こんな経緯で、どうにか一山越えてみたものの、これからどーなるのかはわからない。

理由がなんであれ、親の介護は楽じゃない。
未来に希望を託してやってく育児とは、介助内容が同じでも方向性が相反するものだから。

ただ、だからこそ・・・・・なのか。
未来に希望を託せない彼等には今という時間しかないから、、、、
こその、面白味、、のようなものが、確かに存在するように思う。

アイロニックで辛辣な物言いや行動は、決して子供にはまねできない独特の深みがあったりする。

[親]や[近親者]っていう歴史的背景をある程度そぎ落とせれば、彼等の行動や言動にはある意味真理に迫る凄みがあり、その凄みを楽しんじゃうこともできるのかもしれない・・・と最近思う。
そんな交わりを今後母と持っていければ・・というのが、目下私の希望(笑)

そして、それはベストセラー本「ペコロス・・・」のように、決して自宅介護だからこその楽しみではなく、
施設入居である程度の距離を持った状態であっても十分可能なのだと思う。

大切なことは、共倒れしないこと。

冗談抜きでそこが一番大切だと、痛切に感じる今なのです・・・。







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| Family -家族の軌跡- | 04:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
母親との対峙 1
去年の11月あたりからだったろうと思う。

兆しが見え始めた。

何かが確実に変化している、、、、

母との対峙が終わりに近づいている、、、、

そういう手ごたえを感じた。

それでも、名残というのか、癖というのか、長年こしらえてきたものを手放したくないという無意識なのか、その変化を素直に受け入れられない私がいた。

いやいや、まだまだ、こんなものじゃすまされないはず。
まだまだ私には母への怒りが残ってるんだ。

そんな言葉が深い意識の泉から聞こえてきた。

私が今これを書き始められたのは、そんな言葉も全く聞こえなくなり、父が他界してからの1年半
にわたり続いた母へのどうしようもない怒りの塊があとかたもなく消え去ってしまったからだ。

今になってみると、
あの日々はいったい何だったんだろう・・・・?
なぜあんなにも怒りが後から後からわき上がる温泉のように噴出していたんだろう・・・?
と不思議になるほど。

あの日々の私は、こんな日が本当に訪れるなんて正直予想していなかった。
もちろん、もういやだ、こんな怒りに翻弄される日々から抜け出したい、とは毎日願っていたけれど
いざこうなってみると、ただ驚きだけが残る。

あの日々、私はまるで父親だった。
父親が乗り移ってるんじゃないか?!と本気で感じるほど(笑)
父の尊厳のために付け加えると、それはあらゆる場面あらゆる瞬間で父がとっていた行動と
瓜二つに自分が行っていたということで、父が持つ怒り体質だけに限ったことではない。
父が他界するまで、私は自分と父がここまで似ているなんて思ってもいなかったから
父の言動、父がとる行動を、自分が無意識にとっていることに驚く日々だった。
特に、使う言葉には驚かされた。
母への言動はもちろん、娘への言動も父が私にしていたものとまるで同じ時が多々あった。
そんな時、父の魂が自分にここまで浸透していたことに驚いた。
だって、あんなにいがみ合っていた私達だったのに。

だからこそ、私は毎日後悔していた。
父の心情がわかりすぎるくらいに自分に伝わってきたから。
それも、父がもうこの世には存在しなくなってから。
どうして、私は父が生きている時に、こうやって父の気持ちを理解し、寄り添うことができなかったんだろう。
せめてここまで理解できなかったとしても、ほんの一部分だけでも父の心情を分かち合う娘で
いられていたら、父はどんなにか楽になっただろう。
そう思わない日はなかった。

娘を寝付かせてほっと一息つくと、決まって父が浮かんだ。
それは思い出といいうには余りにもに鮮やかすぎた。
すぐ目の前に父がいるような感覚だった。
父の葛藤、父の願い、、、、そして父の祈りのようなものが伝わってきた。
そうなると、ただただ溢れて流れ出す涙を止めることができなくなった。
悲しさ、悔しさ、だけではなく、そこには確実に父への溢れる感謝が含まれていた。
1年半程それは続いた。

父という存在が私の中に息づいてきたこの日々の中で、私を心底愕然とさせたことは、
私が37年間見てきた父と、他界してから知った父が余りにも違いすぎていたことだ。
自分の目がどれほどあやふやで真実からかけ離れていたかを知った。

私が見てきた父の姿は、完全に母というフィルターを通しての父だった。
正確に言うと、私が私の瞳のみで捉えていた父の姿がありありと残っているのは物心つく前の
幼い記憶をたどった時だけ。
「おとーさーーーん。大好きぃーーー」そう叫んで父に飛びついていた自分を思い出すこと時、
私がどれだけ父を愛していたのか痛いほど感じてただ切なくなった。

母が小さいころから私に繰り返し囁いた「お父さんはね・・・・」という呪文のような言葉を
私は完璧に鵜呑みにしていた。
その後には色々続いた。
「がさつ」
「冷たい」
「世渡りべた」
「ケチ」
「愛情が薄い」
「汚い」
等、色々・・・

母に悪気はなかったのだろう。
彼女が「娘が父を嫌うようにしむけよう。」などと企んでそんなことをできる人ではないことは
娘の私は重々心得ている。
あまのじゃくな彼女にとって父を褒めることよりもけなすことが愛の表現方法だったのかもしれない。
その証拠に、最後はいつもこう締めくくった。
「でも、いい人なのよ。」
今になって思えば母の本心はそこにあったのだろう。
あとは感情からコボれたただの残骸だったのだろう。
親友に愚痴をこぼすように、娘に呟いていただけなのかもしれない。

けれど娘は友達ではないし、そんな母の本心を読み取れるほど大人でもなかった。
父の血を引く娘でもある私はこういう母の言葉に一喜一憂した。
母の前では「ほんとだよね〜。おとうさんってサイテ〜」と笑いながら受け流したが
いつも心がチクリと痛んだ。
痛みながらも、その痛みに意識を向けることはしなかった。
なんで痛いんだろう?と疑問を抱くことはなかった。
そしてこの歳になるまで父とはそういう人なのだと信じて疑わなくなっていた。

父と私はよくぶつかった。
特にテニスを教えてもらっている頃はひどかった。
いつの間にか、私の中で父という存在が「尊敬」という言葉から一番遠い存在になっていたから
いくら父が必死に教えてくれていても私は真剣に父の言葉を受け取らなくなっていた。
「どうせお父さんは・・・」
そのあとに続く言葉は、そのまんま母が私に投げかけた呪文のような言葉が続いた。
そんな私の態度に父はますます腹をたてて、時にはラケットやボールを投げつけてきた。
私はいつも当たり前のようにそんな父から逃げて、母のもとにかけつけた。
すると母は決まって父にこう言う。

「なんで貴方はもっと愛情もって教えられないの?貴方は娘が可愛くないの?」

そして私にはこう付け加えた。

「可哀相に・・・。」

それは決定的な言葉だった。
私は「可哀相な」娘・・・。

「父は私が嫌いなのかな・・・・・・」

その気持ちは私の根底でゆっくりしっかり根を張った。

子供の心がどれだけ柔らかくたよりなく、そして残酷か・・・

だから、今私が抱えている父への懺悔は、幼い私が作り上げた父像に向けたものだ。

あの時、かけよる私に母が
「お父さんは貴方を愛してるからこそ叱るのよ。
貴方を大切だと思っている証拠なのよ。」

「可哀相・・・」という言葉の代わりに伝えていてくれたら、もしかしたら今よりもう少し早く
父を理解する娘でいられたかもしれない。

・・・とそんなこといまさら言っても始まらない話なのだけれど・・。

父の他界後、一枚一枚ベールをはがすように、私が作り上げた偶像は壊れていった。
それを加速させてくれたのは、娘の存在だったように思う。

娘と「遊び」という行為を通して時間を過ごしている時より鮮明に父の存在を感じた。
私を公園に連れて行き子供のように私と戯れていた父。
鉄棒もボール遊びも自転車も仕込んでくれたのは全部父だった。
「すごいぞ!すごいぞ!おまえは筋がいい!」
普通危険だと回避させるようなことを父は進んで私にさせた。
「こういうところで沢山危険を知っとく方がいいんだ。いざという時に必ずそれがお前を救ってくれる。」
それがいつも父が口する決まり文句だった。

親になって娘を公園に連れていくようになって、同じことを娘にさせている自分がいる。
危険なことをさせるのは正直怖い。
「そこはだめ!」そう言いそうになる自分を止めてくれているのはいつも父だ。
「いやいや、もうすこしさせてみろ。」
父の言葉が聞こえぐっとこらえて見守っていると、娘はするりと関門を潜り抜ける。
昨日できなかったことが今日はできている。
誇らしげな娘の顔をみながら、あぁ父も同じように手に汗握りながらその笑顔を喜んでいたのだと
感じ目頭が熱くなる。
娘に注げば注ぐだけ、父から与えられていた愛情が私に注がれ、それだけで満たされた。

滑稽な話だけれど、今、私は生涯で一番近くに父を感じている。

「一人で大きくなったような顔をするなよ。」
父はよく私に言った。

本当に・・・そうだ。

たった公園遊び一つとっても・・・そうだ。
そこそこの運動神経を持ち合わせて生まれてきたと思い込んでいたけれど
その裏には親の手に汗握る愛情が隠されていたなんて幼い私は知ろうともしなかった。

娘の育児を通して初めて知る父母の姿がこれまで繋がっていなかった点と点を繋げ、[合点]の定義通り私の心のわだかまりが一つ一つ溶けていった二年だったのかもしれない。

そして、あらゆるわだかまりが小さくなるにつれて、これまで棚上げしていた母との問題がさらに
鮮やかに浮き上がり、「やっぱりここを通らんと先になすすまんったいね・・・」とカンネンするに至った。

さてさて・・・・ここからどーなるか・・・。

今に至る経緯はなかなか手ごわかったのだ・・・・。











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| Family -家族の軌跡- | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
一周忌
 今日は父の命日だった。
身内だけの慎ましやかな一周忌の法要を終え、一息ついている。

父が旅立った日の事を思い出していると、そこからの時間の経過が一足飛びの現在に繋がって
まるで昨日の事のようにも思える。
けれど、あの日からの出来事を一つ一つ取り出してみると、単調な日々であっても、それはそれは
変化に満ち溢れていてほんの一年で起きたことだとは思えないようにも思える。

簡単に言ってしまえば、この一年は鍛錬の日々だった。
それだけ、私って人間が甘かったってこと。

この1年、父を思い出さない日はなかった。
父の残像は色あせるどころか日々追うごとに一層濃く鮮やかに更新されている。
それは時にとても悔しいほど。
父がこの家で担っていた仕事を私が引き継ぐ形となり、父の位置から物事を眺めるようになった時
37年間見えていなかった父って人の実像をリアルに感じるようになった。
余りにも滑稽な話だけれど、父が逝ってから、私は父を知った。父の葛藤含め・・・・
より近くに。
より深く。

そういう、父の実像をリアルに感じる瞬間というのは、単純に嬉しさばかりでなく、どちらかと言うと
悔しさに近いものがこみあげてきて、申し訳なさやら愛おしさやら感謝やらで、涙が止まらなくなる。

それでも、ただただ涙にあけくれているような時間を私には与えられなかったことは救いでもあるし
深い喪失感の中で淡々と生きていく術のようなものを、父が教えてくれているような気がしてならない。

出来ることなら、今の状態で父が帰ってきてもらいたい。
今の母、今の私、そこに父が居たら・・・
こーいうありきたりのセリフが、普通に至極切に心に浮かぶ。

この一年頑張ったのは、私よりむしろ母の方だと思う。
たった一年の間で、母はとても変わった。
父におんぶにだっこで依存しきっていたあの母が、今は週に3回デイケアセンターに通い
出されたご飯も残さず食べ、笑顔で帰ってくるようになった。
施設の人の話だと、近頃は積極的に会話にも参加するようになったという。
当初は「明日は行かない。」「ご飯まずい」「楽しくない。」と不満連発だったのが、
今は、「結構楽しいよ。」と、自分で起床し、洋服を着て、一人で化粧をするようにもなった。
ここ数年、ベッドからほとんど出ずに寝たきりの状態だったあの母が。

無理をさせているのだと、思う・・・
父がいたら、あのまま半分あっちの世界にいて、父の小言も我関せずのお気楽な母のまま
ずっといれたんだろうから・・・

おそらく、私の奮闘ぶりが余りに痛々しかったんだろう・・・。

父に依存していたのは、母だけではなく、私もそう。
そんなアマちゃんの私が、突然なんの手助けもない日常に放り投げられた。
そして、逝ってまもなくは、そんなアマちゃんの私に、母は父へと同じように依存心をむき出しに
して私をさらにいっぱいいっぱいにさせた。
「あゆちゃん、新聞がない。」「あゆちゃん、本を借りてきて。」「あゆちゃん、喉がかわいた。」
自分で出来ることすらしようとしなかった。
何も言わなかったら、一日中パジャマのままで、ベッドからおきあがることもなかった。
ご飯を出しても、「いただきます。」も「ごちそうさま」も言えなかった。
もちろん、ご飯の感想なんて何もなかった。

そんな時、よく父が「一言くらいなんか言ってくれよな。作る気がなくなるぞ。」
とぼやいていたことを思い出した。
それでも、あの時は、それで許されている母がいた。
母にとって父は心から甘えれる人だったから。
どんな怒りん棒の父でも、母にとっては世界で一番楽でいられる人だったから。

父がいた時は当たり前に許せていた事が、たった一人の存在が居なくなっただけで、
受け入れられなくなってしまった私がいた。
娘を育てることを優先としていきたい私にとって母の甘えを黙認できる状況ではなかった。
やれないことはしょうがない。
けれど、やれることはしてもらわないと家庭として機能しなくなる。
そんな思いがあった。

しかも子供っていうのは恐ろしくインプットが早く彼女は母のそれらの行動をよく観察していた。
そして真似ようとする。

おはよう
いただきます
ごちそうさま
ありがとう
ごめんなさい
おやすみなさい

それらを全て言わない母を見て当たり前と思って育ってほしくない、ってのが私の気持ちだった。

まずはそこから始めようよ。
母に繰り返し繰り返し伝えた。

何度も何度もぶつかった。
何度も何度もこれでいいのか、と自分に問いかけた。
何度も何度も自分が嫌になった。

あぁ〜〜〜も〜〜〜だめだ〜〜〜と思った時、何度もあった。
娘が病気になって、私も病気になって、やること山積みの時なんかは特にそうなった。
でも、そんな時は今とそれ以前を冷静に比較するように心がけた。
全く前進してないように感じても、三歩下がって二歩下がりながらでもほんの数ミリでも
確実に変化している家族の形が見えた。

よし!まだいける!
まだまだ頑張れる!

母にしても私にしても、頑張ろう、と思えたのは、娘がいたから。
娘の成長を、母と共に分かち合えていることが私と母を繋いでくれた。

子育てっていうけど、娘は私を育ててくれてる。
大人になって親孝行しなくなって、子供は子供の時に十分に親孝行してるんだって知った。

そして、節目の一年を迎えれた今、正直ホッとしている。
家族全員健康で無事に一年を過ごせたことに。
無事に過ごせることは当たり前のことじゃなかった。


今のこの状況が正解だとは思っていない。
母は私達とは離れ施設に入った方が、むしろ幸せなのかもしれないと常に心にある。

けれど、母が一緒に暮らしたい、と言ってくれている間は、出来る限り家族一緒に
暮らしていきたいと思っている。

親孝行したいから、じゃない。
私が後悔したくない、から。

父が逝くまでの最期の数カ月、共に過ごせたあの日々がなかったら私は今よりもっと
後悔していたはずだから。
あの日々がどれだけ私の救いになっているかを痛感しているから、今、母と離れるという選択肢を
選ぶことが出来ない。

母が自らの意志で、施設を選ぶ時が来るのか、先の事はわからない。

娘が二歳になったら、保育園に入れることだけは決定しているから、そこからまた
何かが動き出すんじゃないか・・・とも思う。

母のせいにして、私が自分の人生の一歩を踏み出さない、ような自分でありたくはない。
私は私の人生をしっかり歩む、その後ろ姿を、娘には見てもらいたいから。



がむしゃら

この言葉がこんなにピッタリな一年はないな(笑)

老けた・・・・
外見も中身も(笑)

親父ぃ、あんたが逝っちゃったせいで、なんか私、油が抜けちゃったよ・・・・
干物みたいな女になっちゃったよ・・・・
もともとたいして潤ってもなかったけどさ(笑)

「それくらいでちょうどいい」

そんな父の声が聞こえたような聞こえなかったような・・・・・


初盆でまた会おうね。


合掌





| Family -家族の軌跡- | 00:04 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
母退院

11月から入院していた母が退院して5日が経過。
ゆっくりではあるけれど、母と私、そして娘のそれぞれのリズムが整いはじめているところ。
なんだかゆるーい感じの3世代女三人ライフのスタートしました(笑)

ここに至るまでは、いやいやなかなか大変でした。
二転三転、紆余曲折、、、、(笑)ありましたぁ・・・。

この選択に至るまでの経緯をブログに長々書いていたんですが、疲れたのでやめちゃいました。
とりあえず今日はそれをアップするよりも、経緯よりも今!っていう心境です。

どういう経緯にしろ、母が自宅に戻ってきたことで私達の生活はまた新しいページに移りました。

体力的にはきつく、精神的には穏やかだったこの4カ月は私にとってはとっても意味ある時間でした。
父が逝った後の4か月とその後の4か月は面白いほど対照的でした。
心の整理もつかぬままやることばかりが多くのしかかっていた最初の4か月間は、母へのいら立ちや
不甲斐なさが募る一方で足止めを食らっていたような状況でしたが、その後の4か月間は自分がなすべきことへの覚悟をひとつひとつ行う時間が作れ心がすっきり整いました。

そして、これから・・・です。
要介護2から要介護3に上がり、身体機能は低下しましたが、「自立歩行でトイレに行こう!」
という目標はクリアしてくれましたから、四六時中つきっきりでないといけないという状況ではありませんし、食事も自分でできますから、自宅介護が十分できる範囲内です。
昨日の事はもちろん、今朝食べたご飯も忘れてしまうので、そこらへんの認知度を私がどこまで
母の立場に立って考えられるか・・・てのにかかってます。
これからは週3日日中デイケアセンターへ行くことになりますし、月に2〜3度はショートスティを利用してお泊まりにも挑戦してもらうので、母にとってもチャレンジが続きます。

お互いのスペースを圧迫せずちょうどよい塩梅の地点を見つけていくことが、おそらくこれから先4か月間の目標です。

もちろん、今後も母に対してイライラしたり、モヤモヤしたり、「も〜〜〜っ!!!」っていう瞬間は度々訪れるはずですし、そのたびにそんな自分がいや〜になって、反省して、葛藤して・・・っていう事
繰り返すのだと思います。

でも、それでよかろーもん!って思ってます。

人間だもの・・・です(笑)(つくづく都合のよい言葉です・・・・)

親の介護っていうのは、身近過ぎる人間相手なだけに葛藤ばかりです。
介護士さんのよーに、いつも穏やか、いつも優しく、ってなわけにはいきません。
結局そこには、それまでの親子のヒストリーが蓄積されているわけですから一筋縄じゃ
いかないのは当たり前なんだと思います。

でも、極論、こーいう状況になっている目の前の現実ってのは、誰が作ったわけでもなく、
誰のせいでもなく、自分が作った現実に他ならないわけですから、逃げるわけにもいきません。

逃げはしないけれども、ガチンコでがっぷり四つで向き合っちゃうってこともしない。
葛藤があってもそれをそのまま保持しちゃう《葛藤保持力》を鍛えるにはもってこいの機会です(笑)

やっぱり、母は私の大切な家族。
どんなに昔の事を覚えてなかろーと、昔の姿とまるで違おーと、私を産んでくれ、育ててくれた
私のたった一人の母親。
そして、強烈に私を映しだす合わせ鏡でもあります。

そして、現在、そんな2人の間を余りに上手に繋げてくれるのが娘です。
娘の力は偉大です。
私は、彼女を「世界一の介護士」と呼んでいます。
彼女の笑顔で、母も私もどれだけパワーをもらっているか・・・・。

彼女にせがまれ、明日もママは歌って躍ります!(笑)







| Family -家族の軌跡- | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
母、手術後の経過
手術が無事成功してから6日が経過。
大腿骨頸部骨折の手術は、骨をごっそりと切除しチタンの代替骨を入れるというものだったのだが、
手術はとてもうまくいき、回復もとても順調にいっている。
次の日から早速リハビリが開始され(あまりの早さにちょっと驚いたが・・)今日は尿の管が
外された。
来週には病院を移りそこから2カ月ほど入院する予定。
痛みも随分と軽減されたらしく、毎日「痛い痛い」と泣いていた母も今日は笑みも浮かべて
「痛みが和らいできた」と言葉を発してくれた。
ほっと一安心といったところ。

ただ肉体的には順調な回復をしているのに反して、もともと脳梗塞をもっていただけあって
心理的部分は回復どころかかなり後退してしまっている。
まず言葉数が減った。
今までは頓珍漢な答えであっても一応私の問いかけには何かしら答えてくれていたのだが、
近頃は私の問いかけの意味がすっとわからないみたいで沈黙が続く。
何度か聞くと
「よくわからない。」
と答える。
意味がわからないのか、どー答えていいかがわからないのか、それも「わからない」らしい。
おそらく脳の信号が休憩しているんだろう。
寝たきりって言うのはこれが怖い。
刺激がなく、身体を動かさず、単調な毎日を過ごすと健常者でも脳は衰えていくというから
当たり前といっちゃ当たり前なのだろうが、
こーいう下降線をたどることは予想の範疇だったとはいえ、なんとも苦い心持になる。

でも朱嶺の顔を見るのを毎日楽しみにしていてくれているようで、看護師さんにもよく孫の話を
しているらしい。
朱嶺がババの支えになってるのは嬉しい限り。

今後、母が家に戻れるか否かは、母のリハビリにかかっている。
「自力でトイレに行けるか」
ってところがポイント・
いけない状態だと当然誰かのヘルプが必要になるのだけれど、
ヘルパーさんに24時間いてもらうわけにもいかないし、
以前のように私か父かどちらかが交代でサポートできる状態でもない。
そうなると自力で出来るようになるまで入院するか、施設にいくか、、、、ということになる。
母を施設に入れることにずっと抵抗していた私だったけれど、ここにきてやっと、
そういう選択も場合によっては受け入れないといけないのかもしれないと思うようになってきた。

あまり先々のことに思いめぐらして心配してもどーしよーもない。
今は、母がリハビリを頑張って家に戻ってくれることを祈るしかない。

今年もあと一ヶ月半。

やれることをただやろう・・・・



| Family -家族の軌跡- | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
母、入院

11月3日文化の日
母を連れてお寺の行事へ行った。
母が車から降りて歩き始め数歩進んだ時、転倒した。

「痛い。痛い」と全く立てない様子。
急いで救急車を呼んだ。

診断の結果、大腿骨頸部骨折と判明。
そのまま入院、そして後日手術が決定した。

母は普段ワルファリンという血栓を溶かす薬を常用している為、すぐさま手術、というわけにはいかない。
出血多量になる恐れがあるからだ。
ワルファリンを一時止める必要がある。
手術は17日と決まった。

大腿骨頸部という場所は自然に任せておいても勝手に骨がくっついてくれない。
それだけ体重の負荷が大きい骨だからだ。
老人にとって大腿骨の骨折は致命傷となる。
そのまま寝たきりになる場合も多いし、一気に認知が進む事も多い。

母の場合、すでにかなり脳梗塞が脳内に広がっているのでなおのことだ。
手術し、リハビリをしても、血栓が頭にできてしまっては元も子もない。

ただ、その可能性は限りなくでかい。
そのまま施設に移動することも可能性として選択肢にいれておくことは
当然として受け入れおく必要がある。

入院してまだわずか数日しかたっていないがすでに認知が多少進んだように感じる。



入院したその日。

私は自分を責めた。

実は、私と母の関係は父の他界後からかなり変化していてぶつかることが増えていた。
それまでは父と母の間で中立の立場をとっていたはずの私だったのに、まるで父が乗り移ったかのように母に対して父と全く同じ反応をとってしまう。

なんで?
どうして?
を認知症の人間に問いかけることが
なんにもならないことは重々わかっているのに
母の態度をスルーできないもどかしさがあった。
なまじっか、母の認知症が軽度なもんだから
「もしかして本当はわかってんじゃないの?」
と下手に私が期待してしまうことが原因なのも
わかっていた。

母はそんな私に
「貴方は私から生まれた子供なのかしら?」
という始末だった。

毎日、毎日
「私なんてもう生きていたってしょうがない。」
「私は役ただずだから。」
「あゆちゃんの重荷になるくらいなら施設に入った方がいい。」

そう言っていたかと思うと

「この家は私の分身だから離れたくない。」
「別々に暮らすならここは私の家なんだから貴方がでていきなさいよ。」

と、全く逆の発言が飛び出す時もある。

どちらにせよ生きるという事に匙をなげ、すっかり鬱状態に入っていた。
母にとって父を失ったという事実は、母自身が認識している域を遥か超えて
母から《生きる》という選択を奪っているように見えた。

鬱の薬を飲んだ方がいいと、主治医の先生から神経内科の受診を勧められていた矢先だった。


私と娘
そして母

娘の生命力あふれ躍動している命の方向性と
母が望んでいる方向性は
ベクトルが真逆
けれど、私は母にもっと私と娘と共にこれからの人生を歩いていこうという
前向きな気持ちが欲しかった。
娘が生き生きとこれから人生を歩んでいくその道のりを、私と母と共に支えていきたいという
気持ちが強かった。

要するに、私はどーしたって娘中心にしか考えられなかったのだ。
母の立場にたったところから、生活を整えていくことが出来なかったのだ。

母の喪失感を、私が本当の意味で理解していたとは思えない。
私は私の立場からでしか理解していなかった。


そしてこの日の朝

私と母はまたぶつかった。

「もう離れて暮らそうか。お母さんがそっちがいいならもうそうしよう。」

施設に入りたいという母を引きとめることがもうできなくなっていた。



そんな最悪な関係性の状態のまま向かった先で起きた事故だった。


いつもと違う駐車場に誘導され、目の前の余りの急坂に驚き、これじゃ母は歩けないと
母を寺の裏門の入り口で降ろした。
「ここで待っとくんよ。車とめたらすぐ来るけんね。」
そう言って、車を発進させ、バックミラーで確認した時、転んだ母の姿が見えた。
母は歩いたのだ。私を待たずに・・・・
おそらく、私に負担をかけさせたくなくて、自分で歩こうと思ったのだろう。


ただ救いだったのは、母が頭から転ばなかったこと。
下り阪で頭からいかなかったのは奇跡だと思う。
私はそこに《父》を感じた。


結果、物理的に私と母はいっときの間別々に暮らすことになった。

病院からがらんとした家に帰ってきた瞬間、今まで味わったことのない孤独感を感じた。

悲しいというよりは恐ろしくて身震いがした。

いよいよ私には頼る身内が誰もいなくなってしまった。

もともと親類とよべる親戚がいない。
兄弟姉妹もいない。
父もいない。
そして、母もいない。

これまで兄弟姉妹がいないことで寂しさを感じたことはなかった。
それはまぎれもなく両親のおかげだったのだと身にしみた。
父の存在は余りにもでかかった。
なんだかんだいって私はいつも最終的に父に頼って生きていた。
なんだかんだいって、ぶつぶつ文句言いながらも父はいつも私の尻ぬぐいをしてくれていた。

親と距離を置いてきた20代だって、一人旅したって、結婚したって、
結局のところ、父と母がいる家が、私にとってのホームだった。

私はいっぱしに自立したつもりになっていただけで、実際全く自立なんてしていなかったのだと
父の他界後に思い知った。

父なくしては生きていけないのは母だけだと思い込んでいたが
私もどっぷり父依存症だったのだ。

この3カ月私は繰り返し母に言った。

「私達は自立しなきゃいけないんだよ。私達にはもう最後の砦がいなんだから。
一緒に頑張ろうよ。」

母に向かって言っていたけれど、私は自分に言いきかせていた。



孤独感に押しつぶされそうになった時、隣りで娘が笑っていた。

我にかえった瞬間だった。


「私には命に変えてでも守るべき存在がいる。孤独に慄いている場合じゃない。」


それに・・・・

もしかすると、この母と私の距離感は神様(いや、父かな・・・)がくれた時間なのかもしれない


母は今頑張っている。

病院に行くたびに溢れる涙をぬぐいながら
「ありがとう、来てくれて。ごめんね。無理しないでね。」
と言う。

「待ってるからね。あかねと二人で待ってるからね。」

ぎゅーっと母の手を握った時、はっとした。

この3カ月、こうやって母のぬくもりを肌で感じようとしていなかった私自身を。



謝るのは私の方だね・・・・


ごめんね、お母さん・・・。



| Family -家族の軌跡- | 22:42 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |

通夜、葬式では人前で惜しげもなく涙を流した私だったけれど、
それ以来人前でどーいうわけが涙を流せない。
泣き虫のこの私が、だ。
母の前でも涙を流せない。
それはたぶん母の方が涙を先に流すから、自動的にストップしているのかもしれない。

そんな私が唯一涙を惜しげもなく流す時間がある。

ベッドの上で娘と二人で寝転びながら授乳している時。

美味そうにごくごく飲んでる娘を見ながら(笑)
窓から差し込む陽と、吹きこむ心地よい風を感じながら
二階まで伸びた柿の木の枝に茂る新緑をぼぉーっと眺めていると

決まって父の事を思い出す。

小さな頃からつい最近までの様々な場面がランダムに流れて

涙がとめどなく流れる。

おいおい声を出して泣くときもあるし(それでも娘は起きない・・笑)
じわりと涙が噴き出すがままのときもある

「あぁ〜。本当にいないんだな・・・」

と深く実感する瞬間でもある

そしていつのまにか、娘と一緒に昼寝する

それがいつからかパターンになった。


そんな娘とつかの間のうたたねの最中、父が久しぶりに夢に現れた。

ここんところご無沙汰だったのだけれど、さすがお彼岸。

父が近くにいるよーな気配がなんとなくしていたここ数日。

裏庭に植えた覚えのない彼岸花が均等間隔に5苗真赤な花を咲かせている。

おそらく鳥のフンに運ばれてきたのだろうけれど、これまで一度もこんな事なかったのに
今年に限って咲くあたり偶然とは言い難く父の魂に寄り添う心持になっている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夢に現れた父は少しふっくらとしていていつもの麻のジャケットにジーンズ姿。
「少しふっくらしたじゃない!」と言ったら
「ハワイに療養に行っていたんだ。でもまだ食欲がないな。」と言う(笑)
そーいや逝く間際までハワイ行くつもりでいたもんね。

「なんで戻ってきたの?」と聞くと
「お母さんが心配なんだ。」と言う。

どーやら、今もまだ自分が母より先に逝ってしまったことを悔いている様子だった。

「そっか・・・。またお父さんに会えてうれしいよ。戻ってきてくれてありがとう。」

そう言ったら、いつもの感じではにかんでいた。

「とりあえず、なんか食べよう。」

どっかのレストランでテーブルを囲んで家族水入らずで食事をした。

そこから場面がワープして、桜が満開の季節に移り変わっていた。

父の誕生日が3月25日、母の誕生日が4月7日、お釈迦様の誕生日が4月8日(これは関係ないか・・(笑))
ともかく春は母が一年でもっとも愛する季節。

「おまえらに見せたい桜があるんだ。」

連れて行ってもらった先は、土手。
あれはどこなんだろう。
今思うと京都のような気もするが川沿いにそれはそれは見事に古木の桜が咲き誇り
歩道からすこし控えめに立ち並ぶ露店からは香ばしい匂いが漂ってくる。

その情景はリアルだけれど、現実にしてはあまりにも美しかった。

ある店先の店主が突然顕れて

「ほら、そこを見てください。」

と言う。

指が差す方向を辿ったら綺麗な真っ白な蛇が優しく動いていて
しばらくその蛇を鑑賞した。

はたと気がついたら母の姿がみえない。

私と父と娘の三人だけがそこにいた。

「これでほっとしたよ。」

と父が言う。

「どうして?」

と私が聞くと

「俺がお母さんを見送ることができただろ。」

と言う。

「あっそうだったね・・・そっか・・・そっか。」

夢の中の私は母がとても穏やかで幸せそうな表情をして旅立っていった姿だけを急に思い出して、
複雑な涙がこぼれた。

父もとても穏やかな表情をしていて肩の荷が下りたとでもいわんばかりに
ほっとしている様子だった。

「これからどうするの?」

と父に尋ねたら

「僕ももう戻るよ。じゃあ元気でな。」

と言ってそのまま土手を歩き始めた。

「そう。私達はここでもう少し桜を眺めて帰るよ。」

そう言って別れた。

不思議と全く寂しくなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夢はここで終わった。

ありありと覚えている割に意味がよく把握できていない状態なのだけれど
父が出てくる夢って言うのは毎度あまり意味がわからないから
あまり気にしていない。

それよりも毎回父に会う嬉しさがたまらない。

夢とは思えないほどリアルなのだ。

あ〜こーやって時折夢で会えたら寂しく感じることはないかも・・・と思えるほどリアルなのだ。



今回の夢で確信したことは二つ。

とにかく父は母だけが気がかりだっていうこと。

そして先に逝ったことをとても悔いているということ。



「お前の世話にならない。」
「好きなように生きろ。」
「俺たちの事は心配するな。」

父の口癖

強がりもあっただろうし、本気さもあっただろうし

ともかくそう言い続けてきた父なだけに、今とても複雑な想いでいるような気がしてならない。

好きなように生きろ

そう言いたいけれど母の事がきがかりで言えないもどかしさ


大丈夫だよ
こっちはどーにかやってるし
これからもどーにかなるだろうし

仏前でいつもそう言ってるけれど

もう少し近くで見守っていてほしい気がして
もう少し父にわがままをしたくて
頑張ってる私をもっと見てほしくて

本気でそー言っていない私を

たぶん父はお見通しだ



| Family -家族の軌跡- | 22:46 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
忌明け法要を終えて
先週末の土曜に、四十九日法要を無事終えた。
これを持っていわゆる忌明けとなった。

本当の四十九日は9月2日だが、平日の為に前の週末に繰り上げとなった。
知らなかったのだが、法事っていうのは、早まるのには問題ないが遅れるのはダメらしい。

だから、本当の忌明けはあと二日。

この法要をひとつの区切りとして、この40日やってきた。
住職さんからも
「四十九日っていうのは不思議なもんで、この日までにどーにかこーにか
ある程度一応の形に納まっていくもんなんですよ。まぁ全てが納まるには
一回忌まではかかるでしょうが、、、、」

確かにその通りかもしれない。
なんとか先が見えてきて、こうやってブログ書いてるあたり、私にも少しだけ余裕がでてきたという
証なのだろう。

この日までのスケジュールというのは、葬儀やさんがくれる「葬儀後の手続き」という冊子に
のっている。
「いついつまでにあれこれ・・」
と丁寧に書かれてあって、何も知らない私はただその通りにやってきた。

余り深く考えず、ただ淡々とこなしてきた。

早かった。
・・・でも長かった・・・。


先週からは遺品整理、形見分けを始めた。(そういう事も冊子にちゃんと書いてあるのだ。)
法要に来れない方や友人や、、、、日々誰かしらが来てくださっていて、
父の思い出にと持ち帰って下さる時の嬉しさっていうのはなんとも表現しがたい。

父は時計やら財布やらの高級なものに全く興味がなかったので、形見分けできるのは
唯一父が誇らしげにコレクションしていたネクタイと、ここ数年でやたらに増えたと思われる
洋服位なもの。
洋服に関してはまだ袖を通していないものも結構あったりして、整理しながら
「おいおい、買いすぎだろ・・!」とつっこんだ。
逝く二日前にも「ハワイに行くときに着ようと思って頼んだんだ。」と通販で頼んだ
ジャケットが届いた。
そんなまだ新品同様の洋服達がただたんすの肥やしになるのはとてももったいない。
サイズと趣味が合えばぜひ着てほしい、そう願いながら父が居るリビングに飾っている。

一昨日は私の友人、今日は父の同僚が、ネクタイを持って帰って下さった。

私が持つ父の形見はハワイで買ったアロハシャツ。
よく似合ってた。
だって私が選んだんだもん(笑)
これだけで十分。

遺品整理っていうのは、感情入れていたら出来るもんじゃない。
ただ淡々といるもの、いらないものを分け、いらないものは処分していく。
・・・とはいっても、途中、何度も昔の父の姿が浮かびこみあげるものがあったけれど・・・

母はこういう作業をしている私に余りピンときていない。
というより、全く関与していない。
母は母なりにどーにか毎日やり過ごすことで精一杯なのだと思う。
近頃、少し認知が進んだ。
朝ごはんを食べても、そのことを昼には忘れていて
「あゆちゃん、朝食べていないからお腹すいたわ。」
と言う。
「食べたじゃない。」と言うときょとんとして寂しそうな表情を浮かべる。
そういう時、なんだかとってもやるせなくなるのだけど、出来るなら全部忘れてしまいたい
という奥底に佇む母の欲求がわかるだけに私はただそれを受け入れるしかない。
朝ごはんを忘れるよりも、本当は父が亡くなったことを忘れたいのだろうから・・・


この数十日は、あらゆる作業をこなしていくと共に、父の歴史をたどる数十日でもあった。
父の歴史をたどると同時に、父の魂が私に宿って私を動かしてくれたような気がする。
面識のない方々との手紙や電話でのやり取りは、私という媒体を通して父が彼らに
話しかけている時間のようでとても不思議だった。

法要には、父の大切な友人たちが数名関西から来てくださったのだが、
それもこれも、父が残した一冊の手帳を通してのやり取りがあってこそだった。

大袈裟な法事ではなくごくこじんまりとしたものだったが、父は喜んでくれたような気がしている。



法事が終わったら、それまでのバタバタとした準備に追われる事がなくなってしまい、
「日常ってどんな風に過ごすんだっけ?」
といった腑抜けの状態に一瞬なりそうだったけれど、
ここはさすが8か月のそだちざかりの娘!
「あたいの世話で暇なしよ〜」と手を焼かせてくれ、
「あ〜そうだった、そうだった!」と腑抜けから早くも脱出させてくれた。
それに加え、家事、母のお世話なんかも加わるとあっという間に1日は過ぎる。

ここでふと気がついた。
もし、残務処理や法事の準備なんかをする必要がなく、父の死去後、ただ私、母、娘の三人の日常生活にポンと置かれたていたら、喪失感、空虚感はもちろん、父のサポートが減った分の負担に
もう心は折れていたかもしれない。

この数十日間、今まで味わったことのない多忙極めた毎日を過ごしてきたおかげで
日中寂しさを感じる暇もなかったし、日常の忙しさに身体が慣れてくれて、普通なら大変だと
感じるだろう今の生活がむしろずっとベターな状態だと思わせてくれている。

昔は、何のためにやるんだろう?と思っていた仏事等のあれこれが、
なるほど、よくできてるものだなぁ・・・と救われる想いで満たされている不思議さ。
絶妙なバランスで整うようになっているのだから・・・・。


さぁ、我が家はこれからどうなっていくのだろう・・・・

不安が微塵もないといえば大ウソだけれど、
まぁどうにかなるかなって感覚の方が多少上回っている。


父がついてる。

7日ごとに閻魔様からのお裁きを受け天国に一歩一歩近づいているはず?!の父

少しずつ物理的な距離が離れるにつれて

父の存在感はおかしいほどに身近になっていく


死人に口なし

なんて嘘っぱち


死人はしゃべる

生きている時よりもずっと深い部分に響かせながら







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